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死して壺を残す・萌黄金襴手・黄地紅彩 加藤土師萌/岩尾對山窯/井上萬二/有田焼・伊万里焼

●佐賀県・有田町

有田焼で有名な佐賀県・有田町。ゴールデンウィークの陶器市を除けば、ごく静かな町である。JR佐世保線の駅では、有田駅より上有田駅で下車したほうが、陶都の散策には都合がよい。上有田駅を降りて、坂道を下っていくと、皿山通りという陶器工房や店舗が軒を並べる通りがある。今右衛門窯や香蘭社、深川製磁などでショッピングができる。この通りから少し入ったところに岩尾磁器/岩尾對山窯がある。足を運ぶ観光客は少ない窯元であるが、このショールームには伊万里焼の古陶磁やここで作られた素地に陶芸家が絵付けをした作品が並んでいる。この中に四方ガラス張りのケースに収められた、金襴手の大壺がある。萌黄金襴手と呼ばれる全体に緑色の上絵の具が塗りこまれ、金彩が入れられた作品である。こちらと同時に製作された、同手の壺は皇居新宮殿が造営されたときに一対が納められた。この作者は加藤土師萌である。

●加藤土師萌とは

加藤土師萌は1900年に愛知県の瀬戸町(現瀬戸市)で生まれている。本名一(はじめ)である。陶工の末裔・加藤姓であり、加藤唐九郎は親戚であると認めた。1914年には瀬戸の窯元の陶画工として雇われ、以後陶磁の意匠家としても活躍することとなった。1955年には東京芸術大学の初代陶芸科主任教授になっている。1961年には「色絵磁器」の重要無形文化財保持者に認定された。

この間、中国・朝鮮古陶磁に対する技術研究を極め、色絵磁器、萌黄金襴手などの再現、さらには黄地紅彩の焼成技術は加藤によって解明されたものである。

日本の陶芸界に様々な功績を残した加藤であるが、1968年に肝臓がんで亡くなっている。

●萌黄金襴手と黄地紅彩

萌黄金襴手は磁器の器体を緑の上絵具を施し、さらに金彩を加える技法である。もともとは金箔で模様を切り抜き、張り付けたうえで再焼成する技法であるが、金液で模様を描く方法も現在では存在する。加藤は前者の方法で作品を完成させている。ちなみに九谷焼の人間国宝・吉田美統は加藤の金襴手作品を見て、釉裏金彩に取組んでいく道を選んだと述べている。

黄地紅彩は中国明時代に完成した技法である。再現が大変難しく、既に絶えた技法とされていたが、加藤によりこの技法が再現された。技法としては黄釉の上に赤絵具で文様を描くものだが、施釉したガラス質の釉上に赤絵具を塗り、同時に焼成すると、赤絵具は下釉に溶け込まれていく。黄地紅彩はまず黄釉で本焼(高温焼成)をして、その後、器体の上に赤絵具で文様を描いてから低温焼成することで得られる技法、と解明された。基本的には、赤絵作品と同じ工程ではあるが、色絵磁器の研究に長けた加藤ならでは知見により成功に導くことができたのである。

●皇居新宮殿・萌黄金襴手飾壺に挑む

今から遡ること50余年前、宮内庁では1968年の皇居新宮殿・長和殿の完成に向けてさまざまな芸術家に調度品の制作を依頼した。東山魁夷は日本画「朝焼けの潮」を納めている。奥村土牛は日本画「富士」を納め、前田青邨が納めた「石橋」「赤牡丹」「白牡丹」の日本画は記者会見の間としてテレビ中継で見た方も多いと思う。これらは造営の際に製作された作品である。

さて、冒頭で記した加藤作の萌黄金襴手の飾壺であるが、この作品は謁見之間・第一義礼室に飾られる目的で一対が制作依頼されたものである。上絵付・金彩は加藤自ら行うが、大型作品のため白磁素地の制作を、先に記した岩尾對山窯に依頼することとなった。完成時の高さ150cmを超える大壺であるが、そのサイズの磁器制作は安易なものではないと、計画時より理解された。もちろん陶土のひと固まりからこの大きさをロクロで引くことは困難であり、パーツを継いで製作するものの、実際にこのサイズの器体を制作できる者自体がいるか、ということが問題になった。しかし、当時すでにロクロの名手として知られていた若き陶工、のちに人間国宝となる井上萬二に製作を依頼し、製作開始までこぎつけている。当初、パーツをロクロ挽きして、組み合わせる方法を用いたが、接続がうまくいかず断念し、外型に陶土を張り付ける方法に変更した。しかし大型の磁器作品ゆえ、製造工程でどうしてもロスがでる。乾燥中、素焼き、本焼の各段階で亀裂や歪みが入り、30体ほどは次々にキズが生じ、製作は遅々として進まない。いくつも製作を繰り返し、どうにか無事に絵付け前の本焼まで進める器体がとれた。この段階で白磁素地何体が完成していたかは定かではないが、次の加藤による上絵付の段階でも最初の一体は底部に亀裂が生じた。引き続き形状の良い器体のものに絵付けを行い、最終的には、3体を金襴手まで完成させ、うち2体が皇居に収められ、残りの1体が製造元である岩尾對山窯に残されたということであった。

しかし、一年半を超える失敗続きで困難極まりない、この製作過程の中、完成間近に加藤が肝臓がんに罹患し、病床に伏すことになった。そのため最後の金彩を施す作業は製作途中で加藤から子息たちに受け継がれた。そして納品を待たずに、加藤は亡くなっている。加藤が死して、残した萌黄金襴手の飾壺一対は、今も皇居で来賓者を待っている。