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そこにも顔がある・岡本太郎/太陽の塔・明日の神話・岡本太郎記念館

●岡本太郎記念館

東京メトロ表参道駅の渋谷方向出口から青山通り/国道246沿いに進む。青山大学の手前を左に折れると骨董通りがある。かつては「開運!なんでも鑑定団」の鑑定士・中島誠之助の古美術店「からくさ」もあった通りである。さすがに今となっては古美術店やギャラリーの閉店が続き、「骨董通り」といえるかどうかははなはだ疑問である。その骨董通りを5-6分歩き、左に折れた奥に岡本太郎記念館がある。

岡本太郎が亡くなりすでに25年を過ぎた。ここは岡本太郎が死して二年後に養女である岡本敏が生前の住居やアトリエを改築して完成させた美術館である。岡本敏子も16年前に亡くなっているが、岡本太郎記念館は平日であっても来館者はいまだ絶えない。死して四半世紀過ぎたが、いまだ人々を引き付ける岡本太郎のアートとは何であろうか。

●岡本太郎とは

岡本太郎は1911年、漫画家の父・一平と小説家の母・かの子との間に神奈川県川崎市に生まれた。絵画の才覚を現し、東京美術学校に入学するも「芸術は学ぶものではない」として中退する。その後、両親とともに渡仏、第二次世界大戦での兵役、捕虜生活を経て、戦後は前衛芸術に邁進する。自作の絵画のみならず、書籍の執筆も行い、独自の芸術論を展開した。1954年に現・記念館となっている場所に自宅とアトリエを作り、以後ここを活動の拠点とした。

1970年の大阪万国博覧会の開催が決定後、岡本がテーマ展示のプロデューサーに就任。そして「とにかくべらぼうなものを作ってやる」との意思の元「太陽の塔」ができた。大屋根を突き出て天に上るその姿はまさに「べらぼう」であった。

大阪万博以降、テレビへの出演やCМ出演もあり、茶の間でも人気を得る。80歳のときに自身が所蔵するほとんどの作品を川崎市に寄贈(1999年に美術館として開館)したが、1996年1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全で死去した。84歳であった。

2008年に京王井の頭線渋谷駅とJR渋谷駅との連絡通路に設置されて、パブリックアートとして新たな名所となった壁画「明日の神話」がある。これは岡本太郎がメキシコで1960年代に製作した後、2003年まで行方不明になっていたものである。発見後日本に移送し、三年をかけて愛媛県東温市で岡本太郎を慕う芸術家や岡本敏子たちの努力により修復された。そして日本テレビ内や東京都現代美術館での展示を経て、渋谷に恒久保存されたものである。

●魅せる「顔」、太郎のアート

美術や芸術に関心がない人々でも、岡本太郎の名前を印象付けたものが現在も大阪万博記念公園に残る「太陽の塔」である。1970年/昭和45年当時、現地の万博に行けなかった方でも、テレビに映し出されるその姿は記憶に残っているはずである。また、近年の映画「20世紀少年」でも登場した「太陽の塔」の姿かたちは、大阪万博当時を知らない世代でも印象に残っているのではないか。

また、1976年/昭和51年のテレビCМで岡本太郎が出演し「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」と語った。ウイスキーのプレミアムとして提供されるグラスを紹介したCМである。さらに1981年/昭和56年にはビデオテープのテレビCМ「芸術は爆発だ」のセリフとともに再び岡本太郎は姿を現し、この言葉を記憶している方も多いと思う。

岡本太郎記念館を訪ねると、多くの作品の「顔」に魅かれる。もちろん「太陽の塔」のように胴体を持つ作品が多いのであるが、それぞれの胴体が持つ「顔」が魅力的である。1940年、岡本太郎は第28回二科会に、パリ滞在時に製作した作品「傷ましき腕」を出品し入選しているが、この作品には「顔」はない。大きな転機は1951年、東京国立博物館で縄文火焔土器を見た衝撃ではないか。後に岡本太郎は次のような感想を述べている。「考古学の資料だけ展示してある一隅に、不思議なものがあった。ものすごい、こちらに迫ってくるような強烈な表情だ」と。

「こちらに迫ってくるような強烈な表情」こそ、岡本太郎が生涯の後半をかけて追い続けていた芸術なのかと思う。現在も岡本太郎記念館にはそれらの「顔」や「表情」がある。多くの方々に、ぜひ一度訪ねていただきたい場所である。

 

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