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視線の先にあるもの・美人画/ダビンチ、フェルメール、グイドレーニ、マネ、モネ、アングル、上村松薗

●美女の視線・・・洋画の場合
洋画の人物像をみていつも気になるのが、こちらをじっと見ているような視線である。古くは、レオナルドダビンチ「モナ・リザ」、フェルメール「真珠の耳飾りの少女」、グイドレーニ「ベアトリー・チェンチ」、マネ「すみれの花束を見つけたベルト・モリゾ」などである。モネの「日傘をさす女」も横を向いているが、視線は正面へとを向けている。また、アングル「泉」では女性が全裸であるから、こちらの眼のやりどころによっては人格が疑われそうであるから厄介である。
編集子はいずれの実物も見たことはないのであるが、絵であっても、ドキリとしそうな眼力のある美女たちである。もっとも、人物を真正面から描くというのは絵画では立体感が出しずらそうである。したがって、斜めを向くとか、振り返るという頭の姿勢の構図を採用しているのは、なんとなく理解できることである。
ところで、フェルメール「真珠の耳飾りの少女」という絵は日本のテレビCМでも取り上げられているが、グイドレーニ「ベアトリー・チェンチ」という絵はあまり知られていないと思う。編集子は「美の巨人たち」というテレビ番組でグイドレーニ「ベアトリー・チェンチ」を初めて知ったが、さらに後の同番組でフェルメール「真珠の耳飾りの少女」を紹介した際に、フェルメールはグイドレーニの絵からこの「真珠の耳飾りの少女」を構想した、と推察していた。確かに似た雰囲気を持つ・・・。真実はいかに・・・。

●合わない視線・・・日本の場合
一方、日本の場合、現代の作品を除いて、ほぼ描かれた女性と視線が合うような絵は少ない。ここで、あえて「現代の作品を除いて」とかいたのは、日本画・洋画を問わず、最近の日本人の画家、特に若手の画家が描く人物は結構、視線をこちらに向けている。技巧的になぜこうした傾向となるかについては明確な理由はないが、やはり写真のポートレートやテレビの影響が現れているような気がする。グラビアアイドルの写真などでは、あきらかに視線を感じる。また、音楽番組などの歌手のアップもテレビで写されている。さらには、映画やテレビドラマなどでは、同じカットを複数回撮影することによって、登場人物の視線の正面から撮影することができ、この画像自体になんの違和感なく視聴できるような製作技法が確立している。こうして、現代の絵画を含む画像は視線を感じる画像にあふれている。今や、日本の絵画は確かに眼力を感じるのである。
話を元に戻すとして、かつての日本の絵画作品は視線を感じるものはほぼなかた。映画「テルマエロマエ」風に言えば、日本人は「平たい顔族」であり、視線を感じる正面を向いた顔の角度では、欧米人よりもっと立体感がなくなりそうである。なので、横を向くのであろうか。こうした理由が合っているとは思わないが、過去には視線を感じる絵画は日本にはあまりなかったと思う。

●松園の描いた視線
昨年の八月、編集子は京都で上村松園展をみた。初公開の作品を含むのべ110作品が公開されるという、大展示であった。有名な「序の舞」も東京藝術大学から貸し出され、展示されていたが、おそらく京都や西日本で所蔵されていた作品が多いのではないかと思う。
先の件でいえば松園は、江戸時代からの浮世絵の流れを汲んでおり、やはり描かれる女性の絵は正面を向いていない。
しかし、松園作品から編集子は描かれた女性の視線を感じるのである。もちろん、それは正面や絵を見ている者に向けたものではない。
振り返る顔、下を向く顔、仰ぎ見る顔。その視線の先には、描かれるものがある。それは、飛ぶ蝶であり、舞い落ちる紅葉であり、散った花弁であったりする。単に、横向きや振り返った顔を描くだけでなく、その視線の先にあるものを描くことで、描かれた前後の時間を感じることができる。描かれたのは一シーンではあるが、ストーリーを感じるのである。まるでInstagramのReeleのように。
実は、この展示で一つ難解な絵があった。「晩秋」というタイトルで、描かれているのは、障子紙の破れた部分を補修する女性を描いた作品である。編集子は展示会ではこの女性が下に向けた視線の意味が解らなかった。もちろん、修復のための道具や紙が用意されていたのではあるが、なぜまさに貼っているさなかに手も休めずに下を向いたか、という疑問である。
正解かどうかは、解らないが、家でこの展示会の図録を見ていた時に、ハタと気づくことがあった。あえてこの気付きは記さないでおくが、読者はいかに考えるであろうか。

 

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