黒い絵・長谷川潔・マニエールノワール/銅版画・メゾチント
●モノローグ・・・黒い絵
10年ほど前、私の勤務先の事務所は東京駅前の八重洲にありました。現在、この八重洲周辺はバスターミナル完成に引き続き、再開発が行われており、私の事務所はすでに茅場町に移転しています。
八重洲から中央通りを渡り、日本橋高島屋の右側を右に曲がっていくと、画廊・ギャラリーや古美術店が点在しています。普段なら美術に関心がない人間なのですが、京橋の画廊を通りかかったとき、その絵に気づきました。
部屋の壁面に真っ黒な絵が掛けてあったのです。写真かな、と思いつつガラスに近寄って目を凝らしていると、奥から出てきた店主と目が合いました。小さなお辞儀をすると、店主がドアを開けて「どうぞご覧になっていってください」と、声を掛けられました。
「いい版画でしょう」と店主は言うと、その絵の前に私を立たせました。近くで見ると、それは真っ黒ではなく、モノクロ写真のように白い部分があり、絵を浮かびたたせています。
「ご主人、お目が高い。遠くからハセガワキヨシの版画に気づくとは!」と、売りつけんばかりにお世辞を言ってきました。しかし、この時に私の脳裏に浮かんだ「ハセガワキヨシ」とは、あの井上陽水などと同世代で盲目のシンガーソングライター「長谷川きよし」でした。しかしこの版画の作者は、どうもこちらの「ハセガワキヨシ」ではないと思いつつ「さすがにハセガワキヨシらしい素敵な作品ですね」と当たり障りのない返事をしてしまいました。まだ用件を済ませる前であり、少し眺めてこの店を出ましたが、とても気になる絵でした。
●長谷川潔とは
その晩、私はインターネットで「ハセガワキヨシ」を検索していました。はじめは漢字もわからないので、正確な名前を発見するのに手間取りましたが、版画というキーワードと併記して検索すると「長谷川潔」という漢字が見つかりました。また、やはり私の知る「長谷川きよし」とは全くの別人物ですので、へんちくりんな会話をあの画廊でしなくて正解でした。
この長谷川潔は、藤田嗣治とほぼ同時期に渡仏した方だとわかりました。第二次世界大戦中も、日本に戻ることなくフランスで生活していましたが、終戦後は一時期、日本人ということで拘束されたそうです。当時、すでにフランス人女性と結婚しており、障がいを持つ子供がいたりすることもあって、戦時中であっても帰国を選ばなかたった家族思いの方です。
日本ではもともとは洋画家を志していたようですが、ある時版画に強い興味を持ち、版画家を志して渡仏したとのことです。日本にいた時には、当初版画家として来日し、のちに陶芸家となるバーナード・リーチに版画を学んでいたこともあったようです。渡仏後は版画の研鑽に務め、1925年には個展ができる水準に達しており、現地フランスでの評価は高かった方とのことです。
●メゾチント/マニエール・ノワール
さらに調べていくと、あの画廊に掛けていた絵はメゾチントまたはマニエール・ノワールと呼ばれている技法による版画ということがわかりました。渡仏後、長谷川はあらゆる版画技法を研究したようです。その中で、17-18世紀ごろに開発された技法・メゾチントに傾倒していったようです。一般的に銅版画の場合は、白い面が多く輪郭線を彫り描いて製版していく版画とのことですが、メゾチントは黒い面が際立ちます。つまりこのインクの乗る黒い部分を銅板に細かく刻み付ける必要があるとのことでした。この時に、「ロッカー」という櫛状の刃物で表面を傷つけていくようです。その日、あの画廊で見た黒い絵はひたすら長谷川がロッカーで銅板を削って生み出されたものでした。
1970年に永年、長谷川の刷師を担当としていたケネヴィルという方が亡くなります。これを契機に長谷川は製作活動を止めてしまいました。80歳目前でしたので、長谷川自身のなかには年齢的にはそろそろと思いもあったかもしれませんが、それ以上に「ケネヴィルあっての長谷川版画」という思いが強かったのかもしれません。ケネヴィルには弟子がいましたので、その弟子に引き継ぐという選択肢もあったと思いますが、ここで長谷川は線を引きました。
そう、その画廊にあった版画ですが、初めて見た翌週に購入し、もう10年ほど我が家に掛けられています。その時まで絵画・美術品などを購入した経験がなく、金額を聞いた時には驚きましたが、画廊が無金利でローンを組んでくれるとの申し出がありました。「どうしようか?」とためらっていると、どこからか「”買います”といいなさい」というささやきが聞こえたような気がしました。そうです、あの高級料亭Kのささやき女将のような天の声に私は従ってしまったのです。現在、すでにローンは終えていますが、妻には金額は伝えていません。長谷川の版画を持ち帰った日に妻に言いました。
「版画、版画。印刷、印刷。直筆でないから、安い、安い・・・(-_-;)」。
やましいことがあると、多言になる癖が私はあります・・・。ただ請求書、明細書、領収書はすぐに始末しました。
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