生々流転~されどアートは死なず/世界遺産・国立西洋美術館/ル・コルビジェ/松方コレクション/ロダン/モネ
●世界遺産・東京上野・国立西洋美術館
東京・上野駅前公園内の敷地に動物園や博物館、美術館が集積している。近年、公園前の整備が進み、駅前を線路に沿って並行に走っていた道路がなくなった。、その結果道路を横断することなく公園に直進できるようになり、人の流れが良くなった。その公園口を出て最初に現れる美術館が、国立西洋美術館である。
2016年、国立西洋美術館が世界遺産として登録された。建築界の巨匠・ル・コルビジェが設計した貴重な建築物ということが選定理由による。1959年の開館から60年を過ぎ、修繕の必要性から2020年から2022年の春まで、改築のため休館となっている。再び目を覚ますこの国立西洋美術館の改修記念の企画展に関心が集まる。その前にこの国立西洋美術館の歩み、特にその開館の経緯に触れてみたい。
●松方幸次郎の蒐集した美術品/松方コレクション
松方正義。もと薩摩藩藩士であり、総理大臣を二回務めるた。明治・大正時代の財政の立て直しに尽力し、日本銀行の創設と金本位制への移行により、国際社会で欧米列国に追いつく基盤を作った人物である。彼の子供に三男の松方幸次郎がいる。鹿児島県同郷の実業家・川崎正蔵の招きに応じ川崎財閥の企業・川崎造船所の初代社長を任された。財閥内の他の企業で役員も務めながら、川崎造船の事業拡大に務めた。第一次世界大戦の軍事需要高まる中で三菱造船所と比肩する造船企業となる。
この第一次世界大戦の中、イギリスに渡った松方幸次郎は英国人画家との交流により西洋美術に触れ、日本での美術館開館を夢見ることとなる。そのためのコレクションが本格化したのは、第一次世界大戦終戦後である。渡欧してひたすら一流の美術品を買い求めた。ロダン、ゴーギャン、セザンヌ、そしてゴッホ。また、モネとは、数度にわたり面会し、直接本人から作品を購入している。買い求めた美術品の中には、日本から渡った浮世絵もある。その数8000点。点数では西洋美術より多く所蔵していた。
●松方コレクションの流転
最大総数で一万点を超えた松方幸次郎のコレクションは大きく三つの転機を迎える。1927年、世界恐慌により川崎造船が破綻する。負債の整理のため、社長である松方幸次郎の私財が投じられる。その際に当時日本に置かれていた1000点の美術品は売却され、散逸した。(浮世絵は皇室に献上。のちに国立博物館に寄託となる)
松方幸次郎のコレクションには、国外に留め置かれていた美術品があった。そのうち、ロンドンの倉庫にあった900点ほどが1939年に火災で焼失した。そして最後に残された400点がフランスのパリで第二次世界大戦の終戦を迎える。幸いなことに、ナチス侵攻の際には接収を免れた。しかし、日本は敗戦敵国である。敵国財産としてこのコレクションはフランス政府に接収された。さらに終戦から五年。松方幸次郎は自分のコレクションを再び目にすることなく、鬼籍に入る。
1951年、松方幸次郎の死後、日本は連合国とサンフランシスコ平和条約を締結した。当時の総理大臣は吉田茂。彼がフランスの外相に働きかけ、パリに残された松方幸次郎のコレクションの返還が決まった。コレクションの中で、ゴーギャンやゴッホなどのいくつかはフランスが返還に難色を示し、最終的に返還が決まったのが計370点。ただし、条件がひとつ付けられた。「コレクションを所蔵する美術館を造れ」。
1953年から文部省が中心となり、松方コレクションの返還と美術館建築が計画される。当初は国立博物館内の建物を利用する案が出たが、フランス側は拒否する。追って当時のルーブル美術館館長が来日して、政府に圧力をかける。「速やかに松方コレクションの展示場所を造れ」。とはいえ、美術館を造るということは簡単なことではない。資金作りから計画が練りなおされる。実業家・藤山愛一郎が中心となり、建設資金のために寄付金を募ることを計画する。そこで藤山らは奇策に出る。美術家・芸術家に作品の提供を求め、その作品を大口寄付者へプレゼントするというインセンティブを含む計画であった。しかし、美術家たちの賛同は安易に得られない。その中で洋画家・安井曾太郎の呼びかけが功を奏する。「松方コレクションが日本に戻って一番恩恵を受けるのはわれわれ美術家ではないのか」と。その後、多くの美術家から賛同を得て寄付が集まる。さらに政府の補正予算計上により、美術館建設への流れは一気に進む。そして20世紀建築界の巨匠・ル・コルビジェへ設計を依頼することも決まった。1957年にル・コルビジェの設計案を受け、建築が始まる。そして1959年ついに開館。ここに松方幸次郎が夢で描いた美術館は現実のものとなり、その中に自ら集めたコレクションが収まったのである。だから松方の集めたロダンは美術館の前庭で入館者を待っている。