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雪の器・休雪白/白萩・十代三輪休和・十一代三輪寿雪・十二代三輪龍気生・十三代三輪和彦・三輪栄造

●萩焼の始まり
戦国時代、朝鮮出兵の際に、日本人に連れてこられた陶工に李勺光・李敬の二名がいる。兄弟という説があるが、定かではない。この陶工は毛利藩の領地・現在の日本の山口県・萩に渡来した。ここに萩焼が始まった。萩焼の宗家とされている窯元、坂家・坂倉家・坂田家はこの陶工を祖として、萩藩のお抱え窯となったものとされている。
兄弟二名の人間国宝を生んだ三輪家もほぼ同時期に萩藩の御用窯として任を受けるようになっているが、初代の作品として赤楽の茶碗が伝わっていることから、三輪に通じる奈良から移った陶工という説がある。また、田原家も江戸初期の御用窯・赤川家を引く継ぐ窯元として知られている。
国内で製造された国焼き茶碗として「一楽、二萩、三唐津」として称されるように、抹茶碗としては人気の窯場である。千家とつながりを持つ窯元も多い。現在でも萩焼は登窯で焼成されているものが多くあり、窯焚きや陶土の性質上焼しまりが甘く、使用により器体の色変わりが早い。「茶慣れ」とも言われ、茶のシミが回りやすい。このことは「萩の七化け」と呼ばれているが、これは変化の速さを指すとともに、その古色の付き方から伝来の高麗茶碗に仕立てられてしまうことがある、ということを指している。

●白萩釉と三輪家
白萩釉という純白に焼き上がる釉薬がある。一般的には、わら灰を主原料としているため、わら灰釉と呼ばれている。唐津焼で斑唐津と呼ばれている技法もこのわら灰釉を使用している。元々は朝鮮で使用されていた釉薬であり、唐津も萩焼でも同じ技法が取り入れられている。
このわら灰釉を改良して、「休雪白」と呼ばれるような白萩釉に仕上げたのが、十代休雪/休和である。以前のわら灰釉とどのように異なるかというと、焼成後まで厚く、嵩が高く残るような調合に調整しているものである。この白萩釉は焼きあがると降り積もった雪のように純白でふくよかな仕上がりを見せる。一般的に釉薬を厚く掛けて焼成すると、焼成中に捲れたり剥落が起こる。通常の釉掛けでは、釉薬の厚さは1mmにも満たない。黒く焼き上げたい鉄釉や青磁釉でも2mm以下である。一方、白萩釉は5mm程度の厚さまで施釉しても、捲れや剥落が生じないように調整されている。
この白萩釉/休雪白は十代弟の十一代休雪/寿雪によってさらに知名度を上げる。「鬼萩」という、砂の含有率を極限まで上げた粗い陶土を使用して器体を作り、さらに鉄分の多い見島土の塗土によって故意に焼成時の捲れを釉薬上に起こし、それを景色とするような作品を作り出した。
十代休雪/休和は古陶磁を写した茶道具をベースとし、白萩釉・灰釉や化粧土の使い方に優れた陶芸家であった。一方、十一代休雪/寿雪は新たな造形を模索して作品作りに没頭した。陶土の塊を古道具屋で買った錆刀で切り出し、中を刳り貫いて製作した水指も十一代特有の技法である。また、すべてではないが、茶碗の高台は割高台、切高台を見どころとする茶碗が多い。

●白萩釉の普及と三輪家
現在では、萩焼の陶芸家で白萩釉を使用する作品は数多くなっており、もはや三輪家の専売特許的な釉薬ではなくなっている。三輪家自体では、十一代の長男・十二代休雪/龍気生、さらには十一代の三男・十三代休雪へと引き継がれ、彼らの作品で使用されている白萩釉には違いはない。しかし、この二人の目指すところは十一代休雪が切り開いた造形への道となっており、大学で彫刻を学び、陶彫的作品を主流としてきた両兄弟は茶陶にこだわりはない。さらに言えば、「休雪」という銘は初代から十三代まで使用していたわけではないし、後の代ではまた別の陶芸作品を送り出してくるやもしれない。三輪家の座敷に三条実美から八代雪山に贈られた扁額がある。そこに書かれた「不走時流」を家訓としている三輪家では、三輪家なりの新たな道が生まれてくるのであろう。
惜しむらくは、十代の養子となっていた十一代の次男・栄造の早すぎる死である。1999年、52歳で亡くなったが、生きていれば十代の茶陶のセンスと十一代の造形を併せ生かした茶道具が期待できただけに、大変残念である。

 

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