各々方 討ち入りでござる・宗偏流茶道と赤穂浪士/山田宗偏/花入・桂川/香雪美術館
●赤穂浪士・討ち入り
「時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて響くは山鹿流儀の陣太鼓・・・」。昔、NHKの大河ドラマや他の時代劇でよく放映されたていたのが、赤穂浪士の討ち入りを描く「忠臣蔵」という物語である。「忠臣蔵」とは、赤穂藩主・浅野内匠頭が江戸城内で職務を務めていた際に、その指導役となっていた吉良上野介の心無い接遇や指導に対して癇癪を起し、江戸城内で浅野が吉良を切り付けたという事件に端を発する史実に基づいた物語である。その後、浅野は切腹の沙汰となり、お家断絶となってしまう。家臣の大石内蔵助らが浅野家の再興に動くが、その望みは絶たれ、最終的には仇討ちとして吉良を殺害するというクライマックスとなる。いまさら12月に発生した故事の話かと、お思いかもしれないが、この日付は旧暦である。つまり現在の新暦では1月30日から31日未明にかけてが討ち入りの日付である。そういえば、ドラマで見ると、雪の道を踏みしめて赤穂浪士が歩く姿が印象的であり、たしかに12月中旬では雪の頃としては、ちょっと早いかな、という感もあったので、これで雪と日付との整合性は納得できる。
雪は足音をかき消すことができるので、討ち入りとしては有利に働いた。とはいえ、赤穂浪士は雪の日を討ち入りに選んだのではない。季節はさておき、吉良上野介と確実に出会える、もしくは在宅していないと仇討ちはできない。赤穂浪士はこの12月14日であれば、吉良が確実に在宅しているという情報を事前に得ていたから、仇討ちの決行日に選んでいる。では、なぜ吉良が在宅しているはずだと予測していたかというと、この日に吉良邸で茶会が開催されることになっていた、ということによる。つまり、吉良は茶人でもあったのである。
●山田宗偏と宗偏流茶道
茶人・山田宗偏。江戸時代前期に徳川将軍や大名の茶道指南をした小堀遠州に茶道を学んだ茶人である。千利休の孫にあたる宗旦の皆伝を受け、三河の大名で茶道を教えた後、1697年に江戸・本所で宗徧流茶道を興したという。時は元禄時代、世は泰平ということで、門弟は武士のみならず町民まで広がっていたようだ。しかし、二代以降の宗偏流は不遇が続き、拠点が九州・唐津や大阪へと移ったり、当主の空白が生じたりしたことがあったが、現在は鎌倉での活動が中心のようである。
実は、先の吉良上野介が学んでいた茶道は、創始間もないこの宗偏流であった。つまり、赤穂浪士討ち入り当日の茶会は宗偏流指南の中で行われ、同じく宗偏流に学んでいた吉良の敵方・赤穂四十七士の一人、大高源吾によって茶会開催の情報が一同にもたらされたという。吉良から思えば、不幸にも茶道を学んでいたから動向が四十七士側に漏れ、仇討ちにあうという流れになってしまった。
●花入・桂川
千利休が、京都の桂川の漁師から魚籠を譲り受けて、花入に見立てたものがあるという。材質は竹皮であり、これを編んだもので、漁師が腰に付けているイメージ通りの籠である。利休が所持したこの花入は、桂籠とか桂川籠と呼ばれており、少庵が所持し、さらに宗旦に渡った。その後、宗旦に師事した山田宗徧が譲り受けていた。現在、この花入は神戸の香雪美術館に収蔵されているが、宗徧の箱蓋裏書があり、宗徧の譲状が添っているという。ここで、なぜ花入・桂川を紹介するかというと、実は赤穂浪士の討ち入りと関係するからである。
赤穂浪士の討ち入りは、12月15日の明け方に、吉良を発見し、その首を落として完遂した。その後、吉良の首を主君・浅野内匠頭の墓前に供えるため、赤穂浪士一行は高輪・泉岳寺に向かった。その際、布に包まれた吉良の首を槍の穂先に掛けて行進したのだが、槍の穂先に掛かっていたのは、実は吉良の首ではなく、この花入・桂川を包んだものだった。知略に富む大石内蔵助は、追手により吉良の首を取り返される可能性を想定し、実際の首は別ルートで運び、隊列は首のカモフラージュとして花入を掲げていたらしい。その証拠として、花入・桂川には槍による切れ込みが残っているという。さて、真実はいかに。
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