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失われしもの、残されたもの/長次郎・光悦・織部/大正名器鑑

●失われた長次郎「木守」、光悦「鉄壁」 

1923年/大正12年9月1日11時58分、神奈川県南方、相模湾を初発とした地震が発生する。「関東大震災」である。死者10万名を越えるという甚大な被害をもたらした要因は火災である。昼食の時間帯を迎え、食事の準備として燃料が使用されていたことと、建築の多くが木造のために延焼を進めた。 

人命のみならず、様々なものが灰燼に帰したが、その一つとして茶道具がある。 

たとえば長次郎作・赤楽茶碗「木守」。かつて、千利休がいくつかの楽茶碗を門弟に選び取らせたとき、一つだけ残った茶碗であり、利休はそれを木守柿のように一つだけ残ったという意味で「木守」と命名し、終生愛した一碗とされている。その後、少庵、宗旦そして武者小路千家・官休庵に伝わり、真伯宗守より高松の松平家に献上された。ところが、東京の松平邸に収められていたその茶碗は関東大震災で罹災。数片の欠けらが残るのみとなる。震災後、名茶碗を惜しみ、楽惺入が木守の残片をはめ込んだ楽茶碗を製作し、復元したものが今も残る。 

「これほどのものは今後はできない。大きなヒビワレは趣と思ってくだされ」との手紙を添えて古田織部が藤堂高虎に贈呈したという伊賀水指の通称「破れ袋」。ひしゃげて、傷だらけながらも大茶人・古田織部絶賛の水指も関東大震災で被災した。恐らく、元々二度くらいは焼成していると思われるその器体は再度の火炎を浴びることとなる。しかし、その形はほぼ織部がみたままの形で今も残っており、東京・五島美術館の所蔵となっている。高火度に耐える伊賀焼の陶土が幸いした。ただ、その水指が収められていた箱は織部の手紙とともに消滅している。 

何らかの形で、今に作品が残る上記のほかに、跡形もなくなくなってしまった名品がある。その一つが本阿弥光悦作・黒楽茶碗「鉄壁」。筒型の黒茶碗で切り立った側面を持つ。現在、東京の五島美術館所蔵の光悦作・黒楽茶碗「七里」と兄弟作とみられる。千宗旦が光悦を訪ねた際に熱望して持ち帰った黒楽茶碗と伝わる。関東大震災の時には、東京・浅草の酒井清兵衛という人の持ち物となっており、「へげめ」という光悦作の赤楽茶碗とともに、焼失した。先の「破れ袋」と対照的に、低火度焼成の楽茶碗、光悦の薄づくりと相まって、そもそも耐久性は持ち合わせていないものであった。 

その他、戦国時代に瀬戸内海の水軍として恐れられた九鬼一族が所有したことから命名された漢作茶入「九鬼文琳」も関東大震災で焼失している。 

●残された茶道具の記憶/大正名器鑑 

関東大震災からさかのぼること、三十余年前の1861年、江戸時代末期に茨城県で水戸藩士の子・高橋義雄が生まれる。後の茶人・高橋箒庵である。三井呉服店勤務時代には海外留学の知識を生かし、デパートメントストア/百貨店の業態を三井呉服店に導入すべく画策した人物である。つまり、三井呉服店が百貨店へと移行し、それが現在まで続く日本橋三越本店の礎を作った人物こそ、この高橋義雄なのである。高橋義雄は51歳でビジネスから引退し、茶人としての生活を晩年までおくることとなる。茶道の関係者で、高橋箒庵の名前を知る人は多い。先人の茶人・益田鈍翁や原三渓などと違い、特に名物茶器の収集で知られたというわけではない。では、何が高橋箒庵の名を知らしめるかというと、「大正名器鑑」という書籍の編纂によるものである。 

「大正名器鑑」は高橋箒庵が名品茶道具の所有者を訪ね、その撮影と採寸、特徴などの聞き書きをまとめた書籍であり、その収録数は、茶碗・茶入875点に及ぶ。実際に編集子も国立国会図書館で資料請求し、何冊かを見てみたが、その素晴らしい点として、実寸大の写真が収録されていることがある。そのため書籍のサイズはなんとB4版と極めて大きく、全編で11冊にもなる初版本は木製の収納ケース二箱に収められていたようだ。ここで書籍名に注目したい。「大正」時代に取材された本である。そう、本文の冒頭で記した関東大震災の発生は大正12年。関東大震災で罹災したいくつかの茶道具は、この「大正名器鑑」収載の茶道具として取材されていたのである。発行開始は大正10年、関東大震災で完成は遅れたが昭和3年に全編が完成している。もちろん、罹災した茶道具のすべてを記録していた訳ではないが、罹災前の姿を現在まで伝える重要な資料であることは間違いない。今日まで現存している茶道具含めて、写しを製作するときの資料として「大正名器鑑」を活用している陶芸家も未だ多い。 

実は現在では、この「大正名器鑑」が国立国会図書館のデジタルコレクションとして一部、web上で閲覧できる。ぜひ多くの方に記録の重要性を認識しつつ、目にしていただきたい資料である。