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雲谷斎愚朗

 東京・台東区谷中。 

週末となると、下町の風情を求めて散策する人が行きかう町である。「谷中ぎんざ」という商店街を中心に、付近にはレトロな雑貨店、喫茶などが点在する町である。 

また、谷中墓地として知られる古い霊園があり、桜の季節には花見を兼ねて、横山大観、杉山寧、牧野富太郎、森繁久彌、鳩山一郎、そしてNHK大河ドラマで登場している渋沢栄一と徳川慶喜など、著名人のお墓巡りなどする人がいる。 

そのエリアには「大名時計博物館」という、特殊な時計を展示する異色な施設がある。大名時計とは、木製の櫓の上に時刻を示す文字盤と計時機器が組み込まれた美術工芸品というべき江戸時代の時計である。実際の展示物には、大名時計以外の古い日本製の時計が収蔵されているようである。 

もともと、ここには「上口中等洋服店」という、オーダーメイドの洋服屋があった。わざわざ「中等」と店名に入れているが、実は英国製生地、ボタンを使用した上等な洋服を製作していたという。店主の名前は上口作次郎という。後に上口愚朗という名で陶芸を始めている。ここの大名時計などは、彼のコレクションであった。 

東京・神田神保町。古くから古書店が多い町として、都民には知られている。 

北野武の母親・さきが、安価でたくさんの本が買えるため、ここで古書を購入して、子供たちに与えたという。北野武の豊富な語彙や文才はこれらの本で養われたのである。 

編集子も、ここで陶芸や美術関係の本を探し回っていた時期がある。 

その折に目にしたのが茶道の雑誌のバックナンバー「なごみ/昭和の奇人・上口愚朗」というタイトルの号である。現在まで裏千家の関連団体の淡交社が発行している雑誌である。もちろん茶道の雑誌の表紙に採用されているので、茶道関係か工芸関係者であろうと想像はつく。 

しかし、表紙の写真に驚かされる。よく見ると、メガネを上下さかさまにかけている。おまけストローで抹茶碗からお茶を飲んでいる。さらに、上半身ははだか。 

「何者・・・」 

手に取り、レジに向かう。 

上口愚朗という陶芸家を紹介する特集号。 

洋服屋である上口愚朗が陶芸を始めたきっかけは、昭和13年、いまも現存する新橋の有名料亭・金田中の店主と同行して、川喜田半泥子の窯場を訪ねたことによる。半泥子の進められるまま、陶芸を楽しんだ彼は、帰京後、陶芸に本格的に取り組むこととなる。 

まもなく太平洋戦争が開戦となり、さらに終戦を迎ると、洋服屋として商売が成立しなくなり、さらに陶芸へと傾倒していった。 

昭和27年に銀座・黒田陶苑で初個展を行い、以降、個展や自宅で頒布会を開催したりした。松永耳庵、小林逸翁、松下幸之助、岸信介など、茶人・財界人に好まれたという。 

「野獣派陶碗」というクセの強い茶碗を作ったり、自らを「不要無形文化財」と名乗ったり、伝統的な工芸界に反発した言動で異端のポジションをとり続けたという。「愚朗」という名前は、奇抜な洋服店の様子を自ら「愚朗天宿/グロテスク」と呼んでいたことにちなんでいるという。 

作品を見ていくと、ほとんどの茶碗は非常にきれいなロクロが挽けているように思う。 

特に井戸茶碗は、国宝に指定されている井戸茶碗「喜左衛門」を見て、触れて以来、大振りなその姿を求めて、終生数多く取り組んでいたようである。焼成で完成ではなく、家人に使用させることで、自然な古色を帯びさせるということまで行っていたという。自作の井戸茶碗には「喜左衛門」に因んで「愚左衛門」との箱書を行った。 

ここに井戸茶碗がある。上口愚朗の井戸茶碗であるが、残念ながら、直しがある。 

直しがある井戸茶碗として「筒井筒」がある。 

豊臣秀吉が所持していた時に、小姓があやまった割ってしまったという。場を穏便に治めようと思ったのが、細川幽斎。「筒井筒、五つに割れし井戸茶碗、咎をば我に負いにけらしな」と伊勢物語「筒井筒」段の和歌に倣い、秀吉の機嫌をとりなおした、との逸話が銘となった茶碗である。 

こちらの井戸。「うまく直してあるが、うまく割れている・・・」という、印象。 

もしかして・・・ 

「筒井筒」に倣って、割ったか? 

ちなみに、当文章のタイトル「雲谷斎」は「うんこくさい」と、読む。 

ほら、愚朗があの世で笑った。