横山操作品の買取

作品カテゴリー

  • 日本画・掛軸

    横山操の生涯・功績

    横山操は昭和時代の日本画家です。
    横山操は青龍社で活躍し、多摩美術大学で後進の指導に当たりましたが、53歳という若さでなくなっています。

    【年譜】
    1920年 ‐ 新潟県西蒲原郡吉田町(現・燕市)に町医者の私生児として生まれる。その後、横山家に養子に出される。
    1934年 ‐ 洋画家を志し上京し、洋画家の弟子となる。ポスターや看板描きなどで生活を立てながら洋画を学ぶ
    1938年 ‐ 第25回光風会展に油彩画の『街裏』が入選するもその後、師の勧めにより日本画に転向する
    1939年 ‐ 川端画学校日本画部の夜間部に入学する
    1940年 ‐ 当時もっとも新表現に先取的存在であったとされる青龍社の主催する第12会青龍展に『隅田河岸』が入選。しかし、その後徴兵・召集される。
    1945年 ‐ シベリア抑留に遭う。カザフスタン辺りで石炭採掘の工員として強制労働をし、そのときの情景や想いなどが、後の横山の作風に影響されたとされており、『カザフスタンの女』等に当時の印象を色濃く残している
    1950年 ‐ 復員し、帰国する。戦争で中断していた制作を再開する
    1951年 ‐ 杉田基子と結婚する
    1956年 ‐ 初の個展を銀座で開催する。『炎炎桜島』で青龍賞を受賞
    1957年 ‐ 東京都台東区谷中の五重塔が無理心中の男女によって放火、炎上。消失後のその様子を描く(『塔』)
    1960年 ‐ 自らの作品を焼却する。またこの頃から『赤富士』の連作が人々の人気を集め、一躍有名画家となる
    1962年 ‐ 日本画の新たな表現を目指し、青龍社を脱退する
    1963年 ‐ これまでとは違う新生横山としての第一回個展・越後風景展を開催する
    1966年 ‐ 多摩美術大学日本画科の教授に就任し、多くの日本画家を育てる。
    1971年 ‐ 酒の飲みすぎにより脳卒中で倒れ右半身不随となる。回復後は左手で制作を続けた
    1973年4月1日 ‐ 新作の制作途中に没(享年53)。

    横山操の作品の魅力

    【鑑賞のポイント】
    絵画は使用する画材と、その表現技法に画家独自の作風が現れます。
    横山操は大胆かつ豪放な大作の作品を描いたことで知られています。
    黒を強調した線で画面の縦横に描かれ、煤や石灰などを画面に擦り付け、
    力強く轟くような漆黒と、そこからにじみ出てくるような鮮やかな色が特徴的です。

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