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平櫛田中/六十、七十は鼻たれ小僧・・・/平野富山 平櫛田中美術館 蕉翁 松尾芭蕉 鏡獅子 尾上菊五郎 彩色木彫 岡倉天心

●百歳を超えてなお
「六十、七十は鼻たれ小僧、男ざかりは、百から百から、わしもこれからこれから」
現在の高齢化社会を象徴するような言葉であるが、50年以上前にひとりの彫刻家がよく揮毫した言葉だという。
その彫刻家は平櫛田中である。
また、「いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」と、年老いてもなお意欲的に彫刻に取り組んだ姿が偲ばれる。
1979年、107歳で死去。その時点での最高齢男性だったという。工房にはなお30年は使えるという木材が残さていたというのは有名な話である。

  

●平櫛田中の生涯
1872年、岡山県に平櫛田中は生まれた。10歳で平櫛家に養子として迎えられている。本名は倬太郎なので、後に称した「田中」は生誕時の名字であった。
1893年に大阪の人形師・中谷省古に弟子入りして、木彫を修業した。その後、上京して高村光雲の門下生となる。美術界の指導者・岡倉天心や臨済宗の高僧・西山禾山の影響を受け、仏教説話や中国の故事などを題材にした精神性の強い作品を制作した。
1944年から東京美術学校(現・東京藝術大学)の教授に招聘され、後進の指導にあたった。
1936年から1958年まで、代表作となる彩色木彫の『鏡獅子』を制作する。
1962年に文化勲章受章、1965年には東京藝大名誉教授となる。そして1979年、東京・小平市で亡くなった。

  

●「そんなことでは死んだ豚も射れまい」岡倉天心に学ぶ
岡倉天心。日本美術史における偉大な研究家であり、思想家である。1888年に東京美術学校を開校し、1890年には同校校長に就任した。50歳あまりで早逝したが、明治維新後に押し寄せてきた西洋化の波の中で、日本美術の再認識と近代日本美術の発展に大きな役割を残した人物と評されている。
そんな岡倉天心が平櫛田中にかけた言葉が以下である。
「そんなことでは死んだ豚も射れまい、彫刻の力だけで表現してみなさい」
日本彫刻会の第1回展に出品した「活人箭」という、弓矢を構えた禅僧の姿の彫刻に対して、こう述べたのである。この言葉に発奮した平櫛田中は、弓矢を取り外し、弓矢がなくとも弓を引ききった瞬間の緊張感まで表現した彫刻に仕上げた。後に岡倉天心は「芸術の表現は理想にある」いい、「その理想をやってくれる彫刻家は平櫛田中だけだ」と語ったという。岡倉天心は1913年に亡くなったが、その精神性を平櫛田中は生涯持ち続けたのである。

  

 

●星取法と彩色木彫
平櫛田中は東京美術学校で教えるようになって、彫刻の技術にも変化が生じている。それは、古代ローマ時代から彫刻で用いられていた星取法である。この星取法は以下のような手順で彫刻を作成していく。
1.粘土で作りたい像の原型を作る
2.粘土原型を型取りして、その型に石膏を流し込み、石膏像を作る。
3.出来上がった石膏像をもとに、「星取り機」というコンパスのような器具を使って、ある位置(点を打つ)で木材をどれぐらい彫ればいいのかを測り、彫りすすめていく。
この星取表によって、原型を丁寧に作ることによって、リアルで複雑な形も比較的容易に木彫作品が出来るようになった。
また平櫛田中が自分の作品としてこだわったのが、彩色である。
1933年、神奈川県鎌倉の鶴岡八幡宮に収めた頼朝公像が転機となった。古に倣いこの奉納物には彩色をする必要があった。彩色は、彫刻のもつ量感や刀の切れ味など、素材のもつ趣を損なうとして、明治以降はあまり行われていなかった。しかし、平櫛田中の中には古様復興の意識があり、さらに彩色によって作品をより良く生かすことができるはずだ、という信念があったのである。「木彫の彩色は邪道である」との批評を聞き流し、以降は彩色木彫に邁進していくこととなった。

 

●平野富山との縁
1911年、静岡県三島市に後に彫刻家となる平野富山が生まれている。本名は富三だった。1928年に彫刻家を志して上京、池野哲仙に師事した。戦時中、新文展で初入選し、1955年に日展で特選を受賞した彫刻家である。当時はブロンズ像での制作を多数のことしている。ところが、現代の評価は日本近代彫刻史上、重要な彩色木彫家の一人が平野富山であると言われている。それはなぜか。もともと、平野富山が上京して木彫を学んだ池野哲仙は彩色木彫の人形師でした。この池野哲仙が縁となり、平櫛田中より木彫の彩色を依頼された。あの大作「鏡獅子」も平野富山の彩色によるものである。その後も、平櫛田中のほとんどの彩色は平野富山によるものであった。
1976年、66歳のとき、平野富山の号を使い始めるととも、自ら彩色木彫に邁進していった。
現在の美術市場で流通している平野富山作品の多くは、彩色木彫である。平櫛田中が導いた道でもある。

   

●大黒天に託したもの
晩年に平櫛田中は大黒天の彩色木彫を数多く手掛けた。実は美術市場では、この贋作も数多く出回っており厄介なものであるが、ある大黒天の箱書に次のようなものが書かれていた。
「このつちはたからうちだすつちならで のらくらもののあたまうつつち」
つまり「のらくらもの」、怠け者は大黒天が持つ小槌で叩かれるよ、という意味。もちろん平櫛田中自身への戒めであろう。
これを部屋に置けば、縁起物ではなく、実は監視役?

 

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