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左官職人の作る超絶技巧・鏝絵/伊豆の長八・入江長八/漆喰・真田丸・挟土秀平/伊豆の長八美術館

●歴史ある職業・左官 

左官とは壁を塗る職人であり、日本の建築では古くからある重要な職業である。古くから都の建築物で必要とされていた職人である。なぜ壁を塗る職人を左官と呼ぶようになったかについては諸説あるが、大工を右官、壁を塗る職人を左官として対比した職種だったとする説もある。 

基本的には壁面表面をフラットにぬる技術が要求されるのが左官であるが、模様を作る技術も持ち合わせている左官もいる。2016年、NHKの大河ドラマは戦国武将・真田幸村を主人公とした真田丸だった。このタイトルは左官職人・挟土秀平によって書かれたことが知られている。この文字は壁を塗るための「鏝/こて」を使用して一気に描かれたものであった。 

近代以前は、内装も外装も塗り壁が一般的であった。いまでこそ珪藻土という自然原料を生かした塗り壁などもあるが、主に漆喰というものが使用されていた。漆喰は石灰石を原料とした消石灰/水酸化カルシウムを使って塗り上げる白い壁である。内装にも外装にも使用されていたもので、天然原料のため健康に害がなく、吸湿性もあるものではあるが、近年ではコストの関係から使われるのが減ってしまった。下地づくりのためには重要な左官ではあるが、現代の建築技術ではフラットな下地自体は容易に作れるようになっており、また表面加工も壁紙や内装材の進化により、左官のニーズは減ってしまっている。 

●左官職人、江戸に出る 

「伊豆の長八」と呼ばれた左官職人がいる。静岡県伊豆半島西部・松崎町で生まれた左官職人である。松崎町は伊豆半島鉄道の終点・修善寺や下田からも遠く、通年を通じて静かな落ち着いた港町である。ここで伊豆の長八・入江長八は江戸時代後期・1815年に生まれている。12歳で地元の左官職人に弟子入りしたが、18歳となると江戸に出てた。江戸に出た理由は定かではないが、もちろん伊豆よりは仕事があり、お金を得やすいということは間違いない。ただし、一介の左官職人で終わらず、後世まで名を残した理由は、江戸で狩野派の絵画を学んだことにある。壁面に模様を付ける装飾技法は長八以前から存在していたはずである。しかし、長八は模様に飽き足らず、装飾としての壁面づくりに研鑽していった。さらには、漆喰を使用した塑像までも製作していた。 

現在、長八の作品は静岡県の伊豆地方に数多く残されている。住まいや没地は東京・深川とされているので、江戸・東京と静岡・伊豆を行き来しての製作が行われていたと思われる。とはいうものの、東京に作品が残されていないのは大正時代の関東大震災と昭和の東京大空襲によって、作品の破壊・損失が大きかったものと思われる。 

●長八の額絵・鏝絵 

左官職人の使用する鏝の形状をみると、基本的には五角形のホームベースを縦に伸ばしたような形状をしている。長八は壁面への細工がしやすいようにスリムな形状の柳葉鏝というものを考案したといわれている。長八の技法として特徴は大きく二つある。一つはレリーフのような立体的な壁面がある。これは掘り出したものではなく、盛り上げて製作しているものである。もう一つは、彩色である。この場合の彩色は完成後に着色するのではない。あくまでも、顔料を含む漆喰を使用して着色しているのである。西洋の壁画にはフレスコという技法がある。壁面が乾燥する前に描くということでは同じであるが、長八は筆で着色するのではなく、鏝で着色しており、「鏝絵」と呼ばれる。油絵のペインティングナイフにも似ているが、油絵では面を作るという要素が強く、描画する対象を描くという要素ではないということで異なっている。あくまでも、「鏝で描く」ことにこだわったのは左官職人というアイデンティティであり、どこにないものを作るという自負だったのかもしれない。 

長八の作品は生地・伊豆の松崎町にある「伊豆の長八美術館」で120点ほどが収蔵されている。松崎町は、駿河湾で獲れた魚を満喫することができる港町であり、長八作品の鑑賞と併せて訪ねてみたい街である。

 

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