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失われた壁画、よみがえる壁画・法隆寺金堂壁画/安田靫彦・前田青邨・橋本明治・平山郁夫・文化財保護法

●燃え上がる国宝 

もう80年もたってしもうたのう。そうじゃな、あれはわしが小学生の頃だったな。その頃は法隆寺の近くに住んでいたのや。昭和24年、戦争が終わったばかりで、まだまだ厳しい生活の日々だったような記憶がある。戦後のおだやかな正月が過ぎたばかりの一月の朝、サイレンがけたたましくなり続けたんだな。「お寺さんが火事や」という声が近所から聞こえて、表に出てみると煙が見えたんや。それから中学生の兄貴とともに法隆寺の門前へ走ったんや。「金堂が燃えとる」、だれかがいってはった。子供ながらに国宝があるお寺さんくらいのことはわしでも知っとった。近隣から消防車がぎょーさん駆けつけてくれたが、簡単に消火はできへんかったな。しばらくすると、立派なお坊さんが両脇を抱えられている姿を見たが、後で管主の佐伯定胤さんやと知った。燃えさかっている金堂の中にとびこもうとしてはったようや。「えらいことしてしもうた」、そんな言葉をつぶやいていたような気がしたな。 

●法隆寺金堂壁画とは 

小学生の時分には、十分理解できていなかったが、中学なって歴史を学んだ時に先生が法隆寺の壁画についてよーく教えてくれはった。正確な記録はないが、七世紀から八世紀ごろに書かれた壁画らしいわ。外壁側に仏画12面、小壁に羅漢図18面と飛天図20面があったらしい。飛天図20図に関しては火災当時、別のところへ撤去・保管されて無事だったらしいが、羅漢図は木端微塵となってしもうた。もちろん外壁の仏画12面も甚大な損傷は生じたが、鎮火後に取り外されて現在も罹災当時のままで保管されとる。 

そもそもこれらの壁画は、火災の前から千年以上経過しているさかい、損傷が激しかったちゅうことや。そこで修復が行われていた訳やな。まずは現状の記録という目的で模写がわしが生まれた頃から始まっていたようやけど、戦争を挟んで中断されとった。それが再開されて本格的に進んできたというさなかの火事やな。火災の原因は、この模写に参加していた画家が使用していた暖房の電気座布団の切忘れと言われておるが、出火責任はだれも問われなかったんや。残念やけど、なくしたものは取り返されへん。しかし、なんと記録が残っていたということや。 

●残された記録と修復 

京都にな、古くからある写真屋として知られていた便利堂というところがあるんや。火災で失われたこの壁画なんやけど、せめてもの救いは昭和10年に撮影されていた写真があったということや。元々は模写の下図として使用する目的で、この失われた外壁12面が写真として残っとる。さらにこの便利堂ちゅうところのすごいところは、原色で写真が再現できるように四色分解のフィルターで撮影しておったということや。これは未来でもカラー写真で再現して壁画を見えるちゅうことを見越してや。これは驚きやで、戦争前やで、撮影しとったのは。 

確か五・六年前くらいだったと思うが、この時の写真原板は国の重要文化財となったとのことや。そうそう、この間、孫がインターネットちゅうやつにつないでスマホかなんやらで見せてくれたが、法隆寺と奈良の国立博物館が誰でも見られるようにデジタル化したらしいな。このあと文化財保護法ができたり、この金堂火災の日、1月26日が文化財保護デーとなったらしいが、それ以上に記録に残す大切さを教えてくれたとわしは思っとる。 

あと、昭和41年には日本画のえらい先生方がぎょうさんきはって、壁画の復元をやってくれはった。安田靫彦、前田青邨、橋本明治、吉岡堅二、岩橋永遠、吉田喜彦、稗田一穂、そして平山郁夫や。まるでオールスターやな。期限一年の急ピッチで、ようがんばってくれはった。当時若手だった平山は単独で一面を仕上げたらしいのや。どれも復元やけど、よーできた仏画やで。これはこれで皆に見てもらいたものやな。古いものを大切にするちゅうことは大事なことや。せやけど、すべてをそのままの状態で残すことはできへんと思うとる。だからこそ、記録が大事やな。 

 

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