「鬼」と呼ばれた茶人・松永耳庵/有楽井戸/志野茶碗・橋姫/国宝・釈迦金棺出現図
●鈍翁vs耳庵
井戸茶碗・有楽。織田信長の弟にして茶人・織田有楽斎が所持したと伝わる大井戸茶碗。現在は東京国立博物館に収まっている。萩焼の名工、故・坂田泥華が井戸茶碗の手本として作り続けたという大振りの茶碗である。かつては紀伊国屋文左衛門が所持し、箱書の文字は英一蝶によるものと伝わる。国宝となっている井戸茶碗・喜左衛門の縁が大きく開き気味なのに対し、有楽は見込みの広い碗形に見える。
昭和12年、藤田家の所蔵していたこの有楽井戸が売却されることになった。当時・茶人として、また茶道具のコレクターとしての第一人者・益田鈍翁が買取に動く。しかし、競り合いの結果、最終的に手にしたのは松永安左エ門という男であった。その価格は現在の価値で6億円とも7億円とも言われる金額である。また、その二か月後には利休七哲のひとり・蒲生氏郷作の茶杓を現在の約7000万円相当で手に入れている。
松永安左エ門、この男は何者か。
●「電力王」から「鬼」と呼ばれた男
松永安左エ門。長崎県壱岐出身の実業家である。明治から昭和の戦前まで数々の企業の設立と経営に携わり、特に発電事業で名を馳せて「電力王」と呼ばれる。しかし、第二次世界大戦により、発電各社は一社に統合され国家統制の下におかれることになる。松永の経営していた電力会社も国家に飲み込まれ、実業家として一時引退に追い込まれた。
この間、阪急グループの創設者・小林一三から勧められ、茶道を楽しむようになる。もっとも松永の茶道は流派に関係なく、茶道具を単に楽しむため手段であった。松永の50歳後半、孔子の言葉「六十耳順」にちなんで「耳庵」と号するようになる。
そして終戦。松永は小田原への転居を機に、それまでの埼玉県所沢にあった住居、茶室などとともに、先に手に入れた有楽井戸、蒲生氏郷の茶杓、志野茶碗・橋姫などの茶道具を無償で東京国立博物館へ寄贈してしまう。所有することにこだわりがないとはいえ、だれにでもできる行為ではない。
その後、政府から電力事業の再編なども含む公益事業の再編を担うスタッフとして任を受ける。数々の抵抗にあいながらも、GHQの方針とも合致して、松永は戦時下で統合されていた電力会社を再度分割、現在まで続く地域ごとの発電体制の礎を作った。さらには戦後の復興期に伴い電力需要が増大すると、電源開発の原資確保として電気料金の七割値上げという英断に動く。庶民にとって、この非情ともいえる行いから、当時「鬼」と呼ばれながらも、電気料金の値上げを断行した結果が戦後の高度成長を支えたことも事実である。
●さらなる美術品の収集と国宝の入手/国宝・釈迦金棺出現図
日米安保条約の発効によりGHQの占領から日本は解放される。これに伴い公益事業再編の任を松永は解かれる。財界との関係は保ちながらも、小田原での生活も落ち着いたころから再び松永は茶道具を含む古美術の蒐集を始める。すでに80歳を超えていたが、野々村仁清「色絵吉野山図茶壺」、長次郎「次郎坊」などの名品などを入手。そして、85歳で蒐集のマライマックスもといえる国宝の入手を成し遂げる。
昭和26年、平安時代に描かれていたと思われる大きな掛軸が国宝の指定を受ける。「釈迦金棺出現図」である。正式な所有者は京都・長法寺だが、明治時代から京都国立博物館に供託されていたものである。昭和36年、所有者・美術商/ブローカーなど様々な目算の渦巻く中、松永が手にする。現在の価値では10億円相当だという。そしてその国宝は京都国立博物館から松永の居住地、小田原に移動した。それから10年、松永は昭和46年、95歳で天寿を全うする。松永の没後、この国宝は京都国立博物館に戻ってくる。没後の遺品管理団体が、元のさやに戻したのである。
今年、松永耳庵の死から50年を過ぎた。彼の墓所は生地である長崎県から遠く離れた埼玉県新座市の平林寺にある。