• 店舗ブログ

陶器ブランド「乾山」/京焼・尾形乾山・尾形光琳・バーナードリーチ・三浦乾也 

●江戸時代から続く日本のブランド陶器 

ドイツで1709年創業のヨーロッパ最古の陶磁器ブランドマイセン。1759年の創立のイギリスの陶磁器メーカー、ウエッジウッド。1775年、デンマークで王室用の磁器を生産するために創立されたロイヤルコペンハーゲン。これらに前後して、日本ではある陶磁器のブランドが産声を上げた。それが「乾山」である。 

「乾山」とは、尾形乾山のことである。兄に絵師・尾形光琳がいる。芸術家兄弟である。今でいえば千住明と千住博か(天の声/ちょっと違うような・・・。)。いずれにしても江戸前期の芸術家として世に知られていた京都の兄弟である。光琳は琳派といわれる画風の創始者としても知られる。乾山は絵付陶器として現在まで続く京焼の流れを作った陶工で、1663年から1743年までの80年あまりの生涯であったが、現在まで都度話題に上る「乾山」ブランドの創始者である。 

今回は日本最初の陶芸ブランドともいえる「乾山」の展開を振り返る。 

●アーチスト尾形兄弟と「乾山」ブランドの誕生 

尾形兄弟は京都の呉服商の家に生まれる。この店は皇族の御用達として、兄弟の父親が当主の頃はかなり羽振りが良かったようだ。したがって、彼らは美術品に触れる機会も多く、美的センスが養われた。兄光琳は父親の死後、遺産を引き継いでからは放蕩三昧となったが、最終的には画業に専念し、京都・江戸で名作を残す。 

一方乾山は実直な性格で、父の遺産をささやかに使いつつ、京都で生活していた。父の没する以前から交流していた仁清(おそらく二代)との知遇を得て、陶器づくりに関心を持つ。公家・二条家の計らいにより、1712年京都鳴滝の地に土地を提供され窯を開く。ここは京都の北西「乾」にあるため「乾山」と名付けた。ここからが「乾山」ブランドの始まりである。 

江戸開府から100年、世情も安定し、生活様式として、茶道具のみならず民間の陶器需要も拡大し、乾山の才能がここで開花する。そして「乾山」は瞬く間に、大名から町人までの支持を得ていった。当初は「銹絵/さびえ」と呼ばれる鉄絵を中心とした意匠で、乾山が陶器を作り、光琳が絵付けをした作品は多い。後に、色絵、呉須、赤絵作品へと技法は広がりを見せてくる。後に鳴滝窯から京都市内・二条丁子屋窯へと製造場所は移動したが、いずれも陶工が複数名いて、製造過程は分業へと移行していったはずである。その後、乾山は江戸に上京、そして栃木・佐野へ出向いての陶器製造は続いた。 

●脈々と続く「乾山」ブランド 

乾山の上京後、京都には養子となった二代目「乾山」が残った。以降、「乾山」ブランドの陶器は尾形乾山の名前と離れて、京都と江戸で拡大していく。 

歴代乾山として挙げられているのは六代までである。実はイギリス人バーナードリーチが七代乾山として、六代目により指名されていたが、彼は辞退して七代の名称は使用していない。また六代には娘がいて「乾女」銘で陶芸作品は製作していたのだが、彼女も七代は名乗らず、また「乾山」銘も使用していない。逆に、山本如仙という陶芸家は「八世乾山」との箱書き作品に残していたが、この経緯についても定かではない。 

三代以降「乾山」を名乗る陶工は六代まで江戸在住の者であった。二代までの京都の工房が廃れたあと、「乾山」の銘が書かれた陶器が歴代乾山以外の者によって無数に作られるようになっていく。近年の陶工・山本如仙の作品も含めて「乾山」銘はもはや模様の一部となり、乾山何代なのか、また、それ以外のだれの作品なのかも判別しがたい混迷を見せている。 

逆に同じ乾山風の作品を作りながら「乾也(奇才として知られる三浦乾也)」「乾セ」「乾升」と自分の銘を書いた陶工もいたが、デザインとしての「乾山」は江戸中期から近現代まで、無数に残っている。魯山人も乾山風のデザインを好んだ一人である。今日でも京焼では、乾山の意匠を写したものが人気である。こうして「乾山」ブランドは当主なきまま、300年間脈々と生き続けている。 

閑話休題・・・。 

ところで、「日本で一番有名な兄弟は?」と聞かれると、どう答えるか。一番なら「フィンガーファイブ」かな(天の声/古いぞ、お前!)。あと「若貴兄弟」とか。「尾形兄弟」は何番目ぐらいかなー。ちなみに、かつてはプロレスでは「ヤマハブラザース」(天の声/ほとんど誰も知らんぞ!)がいたし、エンタメでは「バブルガムブラザース」がいた。でも、これらは血縁がない者同士なので除外である。「三代目JSブラザース」や「宇宙兄弟」ももちろん除外。でも、よもやよもやで「炭次郎と禰豆子」?!