瓦屋長次郎/楽焼・楽吉左衛門・長次郎・宗慶
●楽焼とは
子供のころ遠足や母親に連れられて、東京調布市の深大寺に度々出かけて行った。現在では、故・水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」や夫人の「ゲゲゲの女房」で有名になってしまったが、昔は落ち着いたたたずまいの寺社であった。そのころ気になっていたのが、参道にある「らくやき」の看板。子供ごころに、すぐに焼きあがる=らくにできる、という意味とずっと思っていた。しかし、実は豊臣秀吉造営の「聚楽第」から搬出した陶土に由来すると知ってからは、結局のところ、楽な焼き物はない、と改めて悟った次第である。
実は、楽家で行われている焼成方法は比較的簡単に行うことができる。耐火煉瓦を組んで小さな鍋が入るくらいの空間のある窯を作り、火の熾った炭と陶土で作ったものを入れて焼成する方法である。この時、ドライヤーやブロアーで空気を送り続け、窯内部の温度を上げていく必要がある。ただし、楽家で行っている方法は窯の内部に「さや」という耐火性のある容器を入れ、さらにその中に焼成前の作品を詰め、「さや」の外側に炭を置いて焼成している。ドライヤーなどは使用していないが、刀鍛冶で使われているような「ふいご」という送風器を使用して、窯の温度を上げている。話は複雑になるが、楽家でも「さや」を使用しない焼成も行うことがあり、この方法で焼成されたものは「焼貫」と呼ばれている。
いずれにしても、楽焼はかまど程の造作で焼き物が作れるのであるから、「楽ちん」といえばそのとおりの焼き物である。
●瓦屋、茶碗を作る
天正四年、織田信長は安土城の造営かかった。「天下布武」を知らしめるため威信をかけた築城である。屋根瓦の需要は高まり、中国や朝鮮から渡来の陶工が製瓦業の中心として活躍した時代である。
京都町内の一瓦屋でしかなかった長次郎に白羽の矢が当たる。時の茶道頭、千利休から新しい茶碗づくりの担い手として長次郎に声がかかったのである。「いまやき」茶碗・楽茶碗の創生である。当時の長次郎の周囲には四人の陶工がいたという。楽家初代・長次郎本人、田中宗慶、庄左衛門・宗味、二代・常慶の四人である。つまり長次郎作として現在伝わっている茶碗はこの四名の工房で生まれた作品であるというのが有力な説である。
長次郎作として伝わる獅子の棟瓦がある。「天正二春 依命長次良之」銘があることから、瓦製造を事業としていた頃であり、最古の長次郎作のものである。また、長次郎銘のある三彩鉢が残っていることからすると、中国の技術を受け継ぐ渡来の陶工を祖先としている可能性が考えられる。
楽初代の長次郎が茶碗づくりにおいて工房制を採用したのは茶碗の製造が開始された時点ですでに60歳を超えていたからという説がある。特に田中宗慶は長次郎より23歳も若く、瓦製造から茶碗製造まで長次郎の大きな力になっていたようである。また、二代・常慶以降の楽家は田中宗慶の血筋であり、その後の初代・長次郎の子孫は陶工として、二代以降の楽家には係わっていないものとされている。
いずれにしても、千家を中心とした茶道の完成期において長次郎の茶碗は大きな役割を果たしており、また多様な作行の茶碗が残っていることから、工房制による茶碗製造が成功し、また楽茶碗自体の完成度をハイスピードで高めていったものと思われる。その完成度は十五代吉左衛門がNHKの「プロフェッショナル」という番組内で長次郎の茶碗を語った言葉で象徴される。その言葉とは「(完成された茶碗が)ここにあるからもういいんじゃないか。これ以上何がいるのだろう」であった。長次郎の完成された茶碗の姿は、十五代吉左衛門の方向性を悩ます原因の一つとなっていたようだ。
もちろん、十四代以前の吉左衛門においても、単に先代の写しを作ればよい、というものではなく、新たな茶碗づくりに邁進していたのだから、十五代同様の悩みをもちつつ作品を作りだしていったのである。