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もうひとつのせともの・セトノベルティ/瀬戸焼・赤津焼/加藤唐九郎・河本五郎

●瀬戸焼と陶土 

関東ではやきものを「せともの」と呼ぶ。 

東京・新宿生まれの編集子は子供のころから、この「せともの」という言葉には慣れ親しんできた。陶器店は「せとものや」と呼んでいたことも記憶にある。関東には益子や笠間といった窯場もあるが、歴史的には確かに愛知県の瀬戸焼が長けている。鎌倉時代に創業され現在まで900年にも渡る長い歴史を持つこともあるが、やはり近現代において食卓で使われる食器を大量に提供することが「せともの」として庶民に認知させるきっかけとなっているようだ。 

陶磁器を作る上で大事な要素として、まずはその原料である陶土の質が問題となる。ちなみに、陶器の原料は陶土といい、磁器の原料は磁土(磁器土)という。ややこしいことを先に述べておくが、後者の磁土は正確には「土」ではなく、「石」を砕いたものである。もう一つややこしいことに、磁土の元となる石は「陶石」と呼ぶ。なぜ磁石でないかというと、鉄を引き付け、方位を示す「じしゃく」が先に使ってしまったから(?)である。もう一つダメ押しでややこしいことを述べる。今書き綴っている瀬戸焼でも磁器は作られているが、実は採掘された陶石そのものを使用しているわけではない。有田焼・伊万里焼で知られる九州北部には良質な陶石の鉱脈がある。しかし、愛知県にこの陶石の鉱脈は見つからず、珪石・長石といった鉱物を合成することによって磁土を得ているのである。 

話を元に戻すと、陶土の質を決める要素として大きくは二つある。一つは、高温や長時間の焼成に耐えることである。陶磁器の焼成は与えた熱量が多ければ多いほど焼しまりが強く、焼成後の耐久性、つまり壊れにくいものとなる。瀬戸の陶土は高く熱量に耐えるので、高い温度で焼成すれば比較的短時間でしっかり焼締まる。もう一つは、成形のしやすさである。可塑性と呼ばれ、ぐにゃぐにゃの状態から形作ったものが形状を維持できるかということになる。可塑性が高ければロクロ挽きや手びねりで加工しても崩れにくく、薄く作ることができる。また、別々のパーツを接合してもなじみやすいという長所を持つ。 

●瀬戸焼の衰退と復興 

鎌倉時代から続く瀬戸焼だが、現在までの間にいくつかの転機を迎えている。最初の転機は「瀬戸山離散と竈屋呼び戻し」である。前者は織田信長の勢力拡大に応じて美濃に窯場が移動し、江戸開府後に名古屋の発展に応じて名古屋に近い瀬戸へと窯場が戻ったことである。 

二番目は、瀬戸での磁器製造である。やはり有田焼・伊万里焼という磁器の興隆は瀬戸の陶器を古いものに押しやった。江戸時代中期、加藤民吉という陶工が九州の窯場である有田・三河内まで出向いて磁器製造の技術を盗み出し、瀬戸に戻った後に磁器製造に成功している。ただし、瀬戸では磁器一辺倒になることなく、陶器も並行して焼成が続いた。 

三番目は「セトノベルティ」の生産。ノベルティとは置物のことで、可塑性のある加工しやすい瀬戸の陶土を利用して、型起こしによる大量生産が可能となり、輸出用にさまざまな置物や陶人形などが作られていった。1900年初めから製造がはじまり、第一次次世界大戦ごろは対米輸出が増加していったという。現在のノリタケの前身となる森村ブラザースという企業が輸出商社として活躍した時代であった。 

●本州最大の陶都へ 

十二支の干支。令和四年は寅年である。誰もが目にして、手に取る干支の置物、これが瀬戸で作られたものかもしれない。瀬戸の窯元では夏から秋にかけて、干支や縁起物の製造と出荷に明け暮れるところが数多い。 

個人作家はどうか。近隣である名古屋という大都市での茶道具のニーズに応えるべく茶陶に取り組む陶芸家は多い。加藤唐九郎もその一人だった。一方、造形を追求して日展への出品をつづける陶芸家も多かった。河本五郎、加藤釥、鈴木五郎、栗木伎茶夫など伝統工芸の地と思われがちな土地柄だが、新たな取り組みに邁進した陶芸家を生み出している。 

そして、現在では名称が変更されてしまったが、全国で唯一「窯業高校」とい名称持っていた窯業専門教育を行う高等学校があり、窯元の子弟や陶芸家を志す若者の受け皿として貢献しており、陶都ならではの施設である。 

 

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