正倉院展に行く 正倉院とは/光明皇后の書跡
●正倉院とは
今年も奈良で恒例の正倉院展が開催されました。
毎年ニュースにもなるし、学校の授業でもあると思うのでほとんどの方がご存じかと思いますが、開催時期が二週間ちょっとなので、関西地域にいなければよほどのファンでなければ、なかなか行かれないと思うので取り上げてみます。
8世紀の中頃,奈良時代の天平勝宝八年(756)6月21日,聖武天皇の七七忌の忌日にあたり、光明皇后は天皇の御冥福を祈念して,御遺愛品など六百数十点と薬物六十種を東大寺の本尊盧舎那仏(大仏)に奉献されました。
皇后の奉献は前後五回におよび、その品々は同寺の正倉(現在の正倉院宝庫)に収蔵して永く保存されることとなりました。
これが正倉院宝物の起りです。
そして,大仏開眼会をはじめ東大寺の重要な法会に用いられた仏具などの品々や、これより200年ばかり後の平安時代中頃の天暦4年(950)に、東大寺羂索院の倉庫から正倉に移された什器類などが加わり、光明皇后奉献の品々と併せて厳重に保管されることとなりました。
展覧会で宝物を観るたびに、なんて美しい、1300年もの間守られてきたのは奇跡的!と感嘆します。
そのように保管出来た大きな要因のひとつは、①倉の構造にあります。
横33m高さ14mの巨大な倉は三倉に仕切られ,北(正面に向かって右)から順に北倉,中倉,南倉と呼ばれています。
北倉と南倉は,大きな三角材(校木)を井桁に組み上げた校倉(あぜくら)造りで、中倉は、北倉の南壁と南倉の北壁を利用して南北の壁とし、
東西両面は厚い板をはめて壁とした板倉造りです。
また各倉とも東側の中央に入口があり,内部は二階造りとなっています。
その中で唐櫃(からびつ)と呼ばれる箱の中に1点ずつ保管されているとのこと。
最近の科学的な調査で、校倉の材にヒノキ、唐櫃の材にスギの組み合わせで使用されていることが、調温・調湿性能に大変優れていることがわかったそうです。
宝庫がやや小高い場所に、床下の高い高床式の構造であることも宝物の湿損や虫害を防ぐのに効果があった。
その上、宝物はこの庫内で辛櫃に納めて伝来されたことが櫃内の湿度の高低差を緩和し宝物の保存に大きな役割を果たしたのです。
もう一つの要因は②勅封の倉であったということ。天皇の許可がなければ開けられないのです。
今でも秋に勅使を迎え「開封の儀」を行い、二ヶ月の間に9千点に及ぶすべての宝物の点検を行うそうです。
その間に正倉院展を行い、毎年入れ替えながら数十点の公開。今年は55点でした。
1300年前の先人の知恵があり、以後戦乱の大火や雨漏りなどのその時々の苦難を超えて手厚く守られ、今実物が観られることに日本人として感謝の念を抱きます。
●光明皇后
正倉院宝物の中に「国家珍宝帳」という宝物700件の名前や由来が書かれたリストが当時のまま残っています。
そこには、天皇遺愛の品々を見ているだけで悲しくなるので、大仏様に捧げます。と光明皇后の名で綴られています。
どれほど愛していらしたのかと、こちらまでせつなくなります。
ただ、光明皇后は淑やかでたおやかな面だけではないお人柄が偲ばれる品が今回の展覧会にありました。
「杜家立成」(とかりっせい)
光明皇后の自筆の書跡で、唐の手紙の文例を書き写したものです。
中国の書聖人といわれた王羲之の書を意識したといわれていますが、書体が少しづつ変わっていきます。
最初はきっちりと丁寧に写していますが、だんだんと早い筆で、力強く男性的な書。
間違ったところはそのまま上から大胆に修正してあり、細部にこだわらないおおらかさに、微笑ましく思えました。
大仏を造った聖武天皇の后として、天皇を支えさぞ頼もしい方だったのだと、書跡からも想像しました。
まだまだ今回の展示では素晴らしい宝物がありますので、回を分けてご紹介したいと思います。
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