子供の世界
「昭和のキャバレー王」とよばれた男が2018年五月、この世を去った。高校を中退し、喫茶店の給仕を皮切りにダンスホール、キャバレーの支配人を勤めた
その男は26歳で独立、その後開店したキャバレー「ハリウッド」は昭和の最盛期には全国で44店まで拡大していたという。男の名前は福富太郎。実業家として名を馳せる一方、美術業界でも知られていた人物である。
今年四月の東京ステーションギャラリーを皮切りに来年まで、彼のコレクションの展示会が全国を巡回、各地で紹介される。収集ジャンルでは、美人画と幽霊画が知られているが、その展示会出品作の一つに、手をつないで輪になっている子供を描いた屏風がある。作者は竹久夢二。「かごめかごめ」と題されたこの屏風は福富の家で実際に開かれたまま、長期にわたり置かれていたようである。福富は幼少時に妹を亡くしている。妹の姿を描かれている少女の姿に重ねた。同居していた母親と二人してこの絵を無言のままで眺めていた時間がよくあったという。
竹久夢二。「大正浪漫」という言葉とともに、いまも美人画は人気を誇る。うりざね顔、憂いのある表情・・・大正時代、一世を風靡した画家とまで呼ばれ、この時代の「美人像」を彼の絵が定義したとも思えるほどである。逆にいえば、その女性画を見れば、今も作者の夢二が思い出される。そのインパクトは未だ消えていないのである。
夢二は23歳にして結婚したものの、二年後に離婚。一時期の復縁があったものの、その後、別の女性たちとの出会いと別離を繰り返し、最期は独りで亡くなった。49歳で亡くなるまで成人女性を描いた数々の絵で人気を得ているが、子供を描いた作品も多数残されている。その多くは、出版物に掲載されたものである。竹久夢二といえど、デビューしてすぐ人気画家となったわけではない。出版社への投書により作品のアピールを行い、新聞雑誌の一コマの挿絵を描き、公募展への出展などを経て、徐々に知名度が上がったのである。
夢二式美人画で人気を博す一方、子供向けの書籍や雑誌の挿絵は描かれ続けた。夢二には三人の子供があり、その姿や自身の子供時代の思い出などを描いている。ある時は、日常の遊ぶ姿や生活場面を、ある時は掲載する文章に即した詩情温まる想像の姿を描いていった。
「子供之友」という子供向けの雑誌が1914年創刊する。編集長は女性初のジャーナリストといわれる羽仁もと子。この創刊二号目に掲載された「花ひらく」という絵がある。桜の木の下で、手をつないで輪になる子供たちの姿を描いた絵である。この絵に描かれた子供たちが輪になっている姿は、その後もいろいろな構図で描かれている。先に紹介した福富が所持した屏風も同じく、手をつないで輪になった子供たちを描いたものである。夢二の生地、岡山県で過ごした頃の自分の姿も入れているかもしれない。
1934年、夢二は亡くなる。その前年に発症した結核が原因である。宮崎駿のアニメ映画「風立ちぬ」のヒロイン・菜穂子の姿で描かれたとおり、昭和初期の結核治療は高地での大気安静療養が主流であった。夢二も長野県の八ヶ岳山麓にある病院で治療をしていたが、治癒することなく独り亡くなっている。最初の効果的な結核の治療薬「リファンピシン」の登場はそれから30年を経過した1966年である。夢二の死後、1937年には日中戦争が、1941年には太平洋戦争が開戦となり、夢二の絵に描かれた子供にとって経験したこともない暗澹たる時代が続くこととなる。夢二にとって幸いだったのは、戦争を肯定したり、高揚感を煽るような絵を子供たちに向けて書かなくて済んだことかもしれない。
九月一日。もうすぐ夢二の命日がやってくる。