富本憲吉と尾竹紅吉/藤本能道・加守田章二・近藤悠三・田村耕一/渋草焼・砥部焼
●人間国宝・富本憲吉
「模様から模様をつくるべからず」。色絵磁器で人間国宝の指定を受けた富本憲吉の言葉として、来年で没後60年となる今でも、この言葉を心に刻み付けている陶芸は多い。
富本憲吉は1886年に奈良県安堵村で生まれた。近年までその住居跡は記念館として残されていたが、館長で陶磁器研究者・辻本勇の死去後に閉館して、展示物であった作品は他の美術館へ寄贈し、跡地は宿泊所として改築されてしまった。
富本憲吉はもともと図案家であり、工芸品の図案を提供したり、一部工芸品を自ら手掛けたりもした。
陶芸に邁進するきっかけは、当初版画として来日したバーナード・リーチの通訳を務めたことにある。富本より先に陶芸に目覚めたリーチの後を追うように富本も陶芸にのめりこんでいく。楽焼から始め、陶器・磁器へと制作を進めていく。
住まいも奈良から東京へ転居し、戦前には東京美術学校で講師も務め、戦中には生徒を伴って、岐阜県高山の渋草焼窯元に疎開した。
戦後は家族を残して、奈良の実家に戻り、京都の陶芸家をつたって作陶をしている。そして、色絵磁器の最高峰と称された金銀彩の磁器作品を多数生み出し、1960年には人間国宝の指定を受け、さらには文化勲章を受賞したが、その二年後の1963年に逝去した。
●尾形紅吉
「尾竹紅吉」は「おがたべによし」と読む。本名は尾竹一枝という女性である。この一枝が富本の妻となり、結婚後は富本一枝となる。
一枝は日本画家・尾竹越堂の娘として1893年に生まれている。父親同様に画才に優れ、女子美術大学に進学したが中退している。当時、婦人参政権運動など女性の権利獲得に奔走していた平塚雷鳥/らいてふが「青踏」という婦人誌を創刊し、一枝は平塚に心酔していく。そして、創刊元の青踏社に出入りするようになった。当時、女性の飲酒が憚れる時代に平塚たちは飲酒し、さらに遊郭として当時まで残っていた東京・吉原で遊ぶなど「女だてら」に非難されるような行動を起こし、注目された。このなかに一枝もいたのである。一枝と平塚との関係は憧れというレベルを越え、今でいうLGBTとしての関係までになったという。しかし、平塚が男性と婚姻関係となると、一枝は追われるように青踏社を離れる。このころまでが尾竹紅吉の時代であるが、この間に絵画の公募展に二回出展し、二回とも入選しており、画家としての実力は備わっていたとみられる。その後、富本と出合い、結婚し、一男二女を設けた。
●一枝と憲吉
青踏社で平塚は「新しい女」という論文を掲載し女性の地位について主張した。また一枝も主張をはっきり言う女性であったという。また、身長は当時の女性としては大柄な164cmほどあったとされ、本来は男勝りな性格であった。
憲吉が絵付けについて、「これでどうか」と一枝に尋ねると、画才のある一枝は「余白を残したほうがよいと思います」と、ズバリと言い切る。こうした言葉のやり取りをきっかけに、憲吉と一枝は口喧嘩を始めることなどが頻繁に起こったようだ。一枝は憲吉の作品には容赦なく辛辣な意見を述べることが多かったようであるが、こうした一枝の意見が憲吉の絵付をより洗練たものへと進化させたと見る向きもある。
しかし、第二次世界大戦終戦という一大事が一枝の心を動かす。この頃、奈良に戻った憲吉に帯同しなかったのは、戦後新たに動き始める自由な空気が、「新しい女」としての心を動かし始めたからである。編集者などの仕事をしながら婦人運動へ協力を惜しまなかった。また、一枝は憲吉に頼ることなく、三人の子供を育てた。
一方、憲吉は京都で色絵磁器の芸術性を高めていく。特に、金と銀の金属を同時に上絵に焼き付ける技術は憲吉によって確立された。憲吉はその後、石田壽枝という若い女性と出合い事実婚状態になった。しかし憲吉が一枝に対して、離婚届という決定的な関係断絶をとらなかったのはなぜだったのであろうか。すれ違いの生じた夫婦であったが、憲吉と一枝の墓は今も二基並んで立っているという。
●富本憲吉の作品
富本憲吉の作品で特徴的なのは、作品底部の銘が年ごとに違っていることである。したがって、その銘を見れば何年に製作されたものかがわかる。
富本憲吉の代表作である色絵磁器は九谷焼に学んでいる。戦前の色絵磁器は九谷焼の技法がベースとなっている。戦後の金銀彩の作品は窯を持たなかった富本にとって京都の陶芸家の協力が大きい。その他、呉須染付は戦前戦後を通じて作成された。
また、富本憲吉が近代陶芸家に与えた影響も大きい。それは、数々の陶芸家が富本の作陶を見て、また指導を受けたことによる。東京では藤本能道や田村耕一を、京都では、加守田章二、近藤悠三が富本に師事し、接している。彼らは釉彩・下絵・上絵などの加飾を行ってきたが「模様から模様をつくるべからず」の思想を引き継いだ陶芸家であった。さらには、陶磁器の普及を目指して、愛媛県の砥部焼の指導を行ったり、富本の起こした図案を京焼の窯元に提供したりするなどにも取り組み、日常生活の中に生かす陶磁器も目指した陶芸家であった。
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