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微笑のチカラ/円空/モナ・リザ/麗子像 

●微笑を求めて 

1974年4月20日、東京国立博物館単独で最多動員数となった美術展が始まった。「モナ・リザ展」である。この一枚の絵を見るために並んだ観客は開催期間中のべ150万人。単独会場での動員記録は50年経過しても、いまだ破られてはいない。当時モナ・リザの微笑を求めて最多の入場待ちの列は500メートルほど離れた上野駅まで続いたという。 

一方、日本の絵画で「微笑」で知られた絵画はない。「絵画 微笑」で検索してみると、検索されるのは意外なことに「麗子像」。作者はもちろん岸田劉生。もっとも、微笑をたたえた麗子の姿は、このモナ・リザをモデルとしているという。 

2020年から世界中を席巻しているコロナ禍。そのなかで、人々を癒す微笑はどこにあるのだろうか。 

●修験僧・円空 

江戸初期、1632年現在の岐阜県で生涯に12万体の仏像を彫った僧が生まれる。のちの円空である。正確な生地、出家などの経緯は明らかになっていないが、30歳のころには岐阜県の伊吹山で修験者として修業していたようである。この伊吹山は円空以前から、修験僧が集まっており、地元への布教や住民への医療活動(呪術・薬草の処方)も行っていたらしい。ちなみに、円空ののちここで修行していた僧には、北アルプス・槍ヶ岳に初めて登頂し、開山した播隆上人がいる。 

1666年、34歳の時に円空はこの伊吹山を出て日本各地を歩き回る。まずは、北海道に向かったようだ。北海道の洞爺湖に浮かぶ観音寺島で自刻の観音像を残している。また、青森にも円空仏は残っている。 

南方の足跡は三重・奈良であり、どちらかと言えば円空が生涯で訪ねた先は東北・関東・そして地元の中部、近畿といった東日本・中日本の範囲である。 

では、なぜ円空は全国を回っていったか。それは、寺院・仏像も無いような小さな村で、自ら鉈、鑿をふるい仏像を提供していくためであった。自ら仏を作り、それを置いていくことで、困っている住民を救う、という願いのためである。 

円空が30歳の頃に製作したと推察される仏像では、時間をかけて作られた様子がある。しかし、円空が各地を訪ねて彫った仏像では、切跡・鑿の跡・枝や節などが比較的多く残されている。「木端仏」とよばれる円空の仏像がある。一本の丸太から、仏像を作る際に切り取られた端材まで利用して小型の仏像を作ったのである。こうした、彫り方や端材の利用含めて、円空の仏像はより多くの住民を救う願いに鑑み、数多く作ることを目標にしていたのでる。 

●微笑の円空仏 

円空の没後、円空と同様に日本国内を行脚していた仏師として知られている僧に木喰がいる。木喰は昭和期に民芸運動の創始者・柳宗悦によって見いだされ、世に知られていくようになる。一方の円空仏は地域の住民にとって非常に身近な存在であり、改めて美術の対象としては顧みられることは少なかった。たとえば円空が彫った仏像は川の中で浮かべて、子供たちの遊び道具となっていたこともあるようだ。しかし柳が木喰を見出したと同様に、円空仏を美の対象として見直した人物がいた。その人物とは、実業家であり、陶磁器研究家の本多静雄である。彼は中部地方の円空仏を譲り受け、コレクションとして25体ほど蒐集していた。現在、この円空仏は愛知県の豊田市民芸館の所蔵となっている。 

では、なぜ本多や我々が円空仏に惹きつけられるのだろうか。その理由は円空仏の表情にある。先に述べたように、数を彫ることに円空は力を注いだ。仏像の衣装・持物と併せて、顔の表情も短時間で仕上げる必要がある。少ない手数で顔を作り、なおかつ仏としての表情も作らねばならない。二筋の目、その下の口元、簡素に作り上げるその到達点が円空仏の表情である。その結果、円空の彫った仏像の表情は微笑をたたえたものとなった。 

コロナ禍で苦しむ今日の多くの人々にとって、300年の時を超えて、円空仏の微笑が癒しになるよう、思いはやまない。