唐子がおどる・三川内焼/平戸焼・磁器染付・透かし彫り 古染付
●長崎県佐世保市三川内発祥の大企業
1986年、長崎県佐世保市の郊外、三川内という地区にある写真店が開店する。店主の名前は高田明。団体観光客の写真を撮影し、その写真販売で事業を拡大していた写真店の支店であった。これが後に「♪ジャパネット、ジャパネット、夢のジャパネットたかた~」という歌で知られ、日本の通信販売売上高において、五指に入る企業となるジャパネットたかたの創業である。この三川内は佐世保市にあるが、港町のイメージがある同市とはかけ離れた山間の小さな町であり、隣県の佐賀県に接している内陸部である。一般的には、あまり知られていない三川内という土地の名であるが、三川内焼または平戸焼という名前で陶磁器の窯場として知る人が多い。この三川内をはじめ、隣町が有田焼の有田町、さらには波佐見焼の波佐見町、さらには伊万里焼の伊万里市と、磁器の産地が連なる。その理由は、磁器の原料となる陶石が産出されるという土地柄による。そして、これらこの地域で磁器は日本のやきものとして育っていった。
●三川内焼の発祥
三川内焼の中心地として、皿山という地区がある。皿山という地名は、陶磁器の産地として他の窯場にもある。三川内焼の場合、皿山という地区はまさしく山の麓に窯元が集散している地区である。最寄り駅はJR佐世保線の三河内駅(駅名と地名は表記が異なる)。上り下りとも1時間に1本程度で、通勤通学以外の時間では2時間の間隔となることがある。皿山は駅から2km程度の距離がある。わずかにバスは運航していたようではあったが、編集子は暑い夏の日、この窯場を訪ねてひたすら30分歩いた記憶がある。
今日、磁器の窯場として知られる三川内であるが、発祥はこの地域を江戸自体に管轄していた平戸藩主が朝鮮から連れ来た巨関という陶工と、やはり朝鮮から渡来した高麗媼(こうらいばば)という唐津にいた女性陶工の一族が、移住し、共に窯場を作ったことが発祥とされている。ただし、当初は磁器ではなく陶土を使用した陶器であった。一方、隣国・鍋島藩管轄の有田では1610年ごろに磁器の製造が始まっている。しかし、こうした最先端の技術は極秘のものとされ、他藩に技術は公開されるものではない。そのため、平戸藩の管轄する三川内での磁器製造は、磁器土の開発に時間がかかり有田より20年ほど遅れて磁器製造が始まっている。
●三川内焼の特徴
先に記したように三川内焼は平戸藩の藩窯として成立している。したがって、基本的に製品は藩および藩から将軍家への献上品となる。
そのため、製品の製造には技術の粋を凝らして作られているものが多い。
三河内焼の代表的な作風として次のものがある。
(1)染付/唐子絵
染付自体はもちろん有田で先に行われていたものである。三河内焼特有の図案として唐子の絵付がある。これは中国風の服装や髪型をした子どもの姿を描いたものであり、もともとは中国ですでに描かれていたものである。三川内焼では、1.3.5.7人と唐子の数は奇数で描かれており、特に7人の唐子が描かれたものは最上位の献上品として作られたものであった。
(2)透かし彫り
轆轤引きの胎土を半乾燥状態のときに、剣先で籠目を刻んでいく技法である。他の窯場でも香炉の火舎で作られることがあるが、三河内焼では本体も切り込みを入れていく。灯篭など大型のもの作られている。
(3)薄胎/卵殻手
文字通り極薄の器体の磁器である。西洋でもこの手のものは製作されており英語で“egg shell”と呼ばれているものである。実際に三川内のある窯元で薄胎のそば猪口を手に取ってみたが、わずかに胴体がゆがみを生じるため破損のリスクを感じ、お土産として持ち帰るのをあきらめた記憶がある。
(4)置き上げと菊花切
置き上げとは、半乾燥の器体に泥状の磁土を塗り重ねて陽刻のような模様を作る技法である。磁土は収縮が大きく乾燥のタイミングを見誤ると、パラパラと剥がれてしまう難しい技法である。
菊花切は小さな磁土のかたまりにハサミを入れて、花弁の細い菊花を作る細工である。
こうした技術を携えた三河内焼は幕末に欧米への輸出が始まった。第二次世界大戦前までは輸出が続いたが、戦後、大量生産の波に乗れなかった三河内焼は人々の記憶の奥に追いやれてしまった。 しかしながらその技術は絶えることなく、今も20ほどの窯元が作品を送り続けていることはうれしい限りである。
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