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ものがわかるということ/骨董をみる眼・白洲正子/白洲次郎・武相荘・青山二郎・小林秀雄/黒田清輝

●無愛想? 武相荘
武蔵国と相模国の境にあるから名付けたという邸宅・武相荘。第二次大戦後、吉田茂の右腕として活躍した実業家、白洲次郎の邸宅である。古民家を移転したという茅葺屋根の日本家屋を母屋とした住居であり、現在はギャラリー・記念館として公開されている。もともとは反戦主義の次郎であり、空襲の戦火からの疎開として、第二次大戦開戦前から夫人である白洲正子とともに住んでいたところである。武相荘は今も、昭和の趣を残しながら、正子の集めていた骨董の世界が垣間見られるところとなっている。
一般的には、政界の裏側にいた次郎より正子の方が知名度は高かった。近年でこそ昭和期のドラマで登場したり、「日本で初めてジーンズを履いた男性」としてファッション界で取り上げられる次郎となったが、どちらかといえば知る人ぞ知る人物である。一方、正子は戦後、随筆家としての仕事を持ちつつ、骨董の世界に足を踏み入れ、骨董の世界でもコレクターとして名を馳せた女性であった。近年、婦人誌や情報誌で骨董の特集があると、度々に取り上げられる白洲正子。なぜ彼女は骨董のエキスパートとなっていったのか、またどういう人物であったのか。

●白洲正子とは
東京国立博物館に黒田清輝作の油彩画「湖畔」がある。もともとこの絵は東京・永田町の伯爵・樺山家にあったものだという。白洲正子はこの樺山家の次女として1910年に生まれた。この客間で「湖畔」を正子は目にしていたそうである。
少女時代にはアメリカに留学したことがあったが、18歳のときに出会った白洲次郎と翌年結婚している。子供の頃より能を舞った正子は戦時中に「お能」という本を刊行したが、執筆活動が本格化したのは戦後である。併せて評論家の小林秀雄や青山二郎などとの交流により、骨董の世界にものめりこんでいく。
以降、随筆を中心に執筆し、古典・能や美術関係で第一人者としての評価を受ける。『能面』で第15回読売文学賞、『かくれ里』で第24回読売文学賞を受賞した。「韋駄天お正」と青山が呼んだように、フットワークが軽くどこにでも直接見聞きしに出かけていく取材力に優れており(自著では「韋駄天夫人」と題された)、こうした見聞は自著に生かされている。次郎との間に三人の子供をもうけたが、次郎とは1985年に死別している。以降、正子は1998年に亡くなるまで先の武相荘に住み続けていた。

●正子のものを見る眼
骨董に関しては、先の小林秀雄と青山二郎との交流によって眼を鍛えられている。特に当時の青山は古美術への鑑識眼が随一と言われていた。正子が集めた骨董をことごとくけなした結果、幾度も涙を流したり、三度胃潰瘍になったと正子は述べている。ちなみに、青山は、古美術界の茶道具至上主義を否定し、中国・朝鮮や李朝のやきものや工芸品に独自の価値を見出し、評論として紹介した人物である。また柳宗悦らの民芸運動にもかかわっており、現代日本の古美術の名品として雑誌など紹介されるもののなかには、青山が発見したものが数多く残っている。
こうして、一癖二癖ある人物から話を聞いたり、手に入れた骨董を見せたり、見せてもらったりてもらったりするうちに、正子の中にはものを見る目が備わってきたようである。
骨董関係の執筆が多いことから「目利き」と評されることが多かった正子であるが、本人としては「自分が好きなものについて解る」ぐらいに思っていたようだ。自分からものに向き合うことで「ものが自分から語りかけてくれるもの」と述べた。ただ、そのための条件として「人に訊くだけではだめ、博物館で眺めているだけではだめ」と述べている。では、どうするか。「身銭を切って買うこと」で、その際は「選ぶ基準を自分で置く」と言う。これは魯山人が述べた「座辺師友」という言葉にも通じる。もちろん、手に入れることで失敗が見えてくるものがある。それも経験であると正子は述べている。なかなか手厳しい言葉であるが、現在では失敗をリカバーしてくれるメルカリなどのツールがあるのでよりチャレンジブルに蒐集を試みてもいいかもしれない。

  

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