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江戸で生きた茶人・山田宗徧・川上不白/宗徧流・江戸千家・如心斎

●江戸っ子
江戸幕府が開府されて400年、東京が現在も首都である理由は江戸開府であり、豊臣の時代が続いていたら、大阪が首都だったかもしれない。もともと、江戸/東京の地は東国の辺境地であり、平安・鎌倉時代の「東下り」といえば、それこそ近代における極地探検みたいなものに感じられたかもしれない。
かくいう編集子は東京の生まれである。父親も東京・深川の生まれであるから、父方の家系は代々が江戸っ子である。江戸っ子が決して自慢できることでないことはその言葉である。時代劇で話されている「あたぼうよ」とか「てやんでぃ」などの言葉はさすが耳にしたことはない。では、身近に感じることで、何が江戸っ子であり江戸言葉であるかということは、「ひ」の発音が「し」になってしまうことである。「東」は「しがし」、「潮干狩り」は「しおしがり」になる。これは父親や叔母(父親の姉妹)から直接聞いていた言葉である。
大体、江戸時代の市民は江戸城より東側に多く住み、城の西側は大名などのお屋敷であるが、さらに現在の都庁あたりの新宿、世田谷、田園調布などであれば市民の姿もほぼ見ない野原だったのである。そんな辺境地、江戸にも都市化されはじめてくると、二人の茶人が江戸に茶道を根付かせていった。

●山田宗徧
ひとりは千宗旦に学び、三河吉田藩の大名に仕えることをきっかけに、武蔵岩槻藩の転封に伴い、江戸で茶道を広めた山田宗徧である。江戸時代前期の茶人であり、先の当ブログでも紹介したが、吉良上野之介と元赤穂藩士・大高源吾に茶道を教えていた宗匠である。そして、山田宗徧が千宗旦から譲られた竹籠の花入「桂籠」は赤穂浪士の討ち入りの際、上野之介の首の代わりを務めた異色の籠花入の名品としていまでも世に知られている。
宗旦流の侘茶と創意を試みていった流派であったが、残念ながらめぼしいスポンサーも得られない中、歴代の宗匠は日本各地を点々としており、活動拠点が安定しない時代が現在まで続いている。

●川上不白
紀州新宮藩付家老水野家の家臣・川上五郎作の次男・尭達は、江戸在住の時、水野の指示により京都へと出向き、表千家七代如心斎の内弟子として茶道を学べ、という命令を受けた。後に江戸千家を興す川上不白、16歳の時である。 指導を任された如心斎も不白の才覚を理解し、常に身近に控えさせ、また外出の際には同行をさせていたという。如心斎のもとで茶道を学び、32歳で免許皆伝となっている。

   

●不白の江戸千家と如心斎への恩返し
江戸時代中期、世情の安定ともに文化への関心も高まってくる。茶道もその一つであり、武士でなくとも富裕層の町人などでも、茶道を学ぶ意欲が高まってきた。ただし、茶道を教えられる宗匠も限界があり、教えることや楽しむことを容易にする改革を如心斎は取組んでいる。
この取組は「七事式」と呼ばれる茶道の指導法である。これは、遊びの要素を取り入れるとともに、複数の者が同時に学べる仕組みであった。これは、如心斎とその弟・裏千家八代又玄斎を中心に、そして不白がこの成立に貢献していたという。
如心斎のもとで学んだ不白は京都での修業を終え、江戸で茶道の普及に努めた。しかし、江戸では大名であり茶人の片桐貞昌/石州による石州流の茶道が先行しており、不白が大名・武家へ出入りすることは容易ではなかった。しかし、地道な活動を行う中、思わぬ発見をしている。それは千利休辞世の書を江戸の豪商・冬木家で発見したことであり、不白の努力によりその書は最終的に千家へと戻ることになった。
また、如心斎急逝の際は不白自ら京都に出向き、当時8歳の如心斎の嫡子、後の啐啄斎の指導をしたという。四年ほど指導を京都で過ごしてから江戸へと戻った。ここで、不白の戦略が江戸千家の流行を生む。それは、武家以外の町人への茶道の普及である。東京・神田明神の境内に八畳の茶室を設け、七事式による茶道の指導を行ったという。これにより、江戸千家の名前と門人は着実に江戸の地に根付いていたったのである。

 

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