あれは誰だ、彼だ、ガレだ/エミール・ガレ/高島北海
●ガラス工房にて
ここ数年は猛暑で真夏の気温が40℃になることも多いが、ガラス工房の中よりはまだ涼しいはずだ。ガラスの原料を溶かすには1300℃が必要と言われており、ガラスが解けている坩堝は白熱化して見える。水を飲まねばとてもいられないが、飲んだ水があせとなって吹き出てくる。
なぜ、オレがここにいるのか。それは父親の書斎に残されたあれを見たからだ。父はオレが小学五年の時に亡くなった。父は書斎を持っており、仕事から帰ったあとや休日には書斎で過ごすことが多かった。勝手に入ると怒られるために中に入った回数はわずかしかない。しかし、父親が亡くなったあと、書斎の整理に入った際に、母から渡されたガラスの花瓶があった。日本のガラス花瓶とはあきらかに異なる作風ながら、単に遺品として学習机の上にそれは十余年置かれ続けていたが、あるときふと底部の銘に気づいた。ミミズが這いつくばったような筆記体だが、よくみると「Galle」というつづりが見える。インターネットで調べてみると「Émile Gallé」というフランス人のガラス工芸家であるとわかった。改めて、その花瓶をよく見ると、単に色を加えているだけではない。そう考えると、数々の疑問がわいてくる。「どう作るのだろう」。こう思った時から、ガラス職人になるという道が開けた。
●ガラスとは
ガラスは石英という鉱物を溶かして、固めたものである。紀元前からガラスは作られており、基本は現在でも何も変わっていない。工業製品を除き、一般家庭で使用するものは、吹きガラスというものがほとんどである。その方法としては、どろどろに溶けたガラスを吹き竿という金属の管の先端に巻き付けて、反対側から空気を吹き付け球状に膨らしていくことが基本である。何回かに分けて、継ぎ足して成形した後、別のポンテ竿に切移して最終形に整えていくのである。最後に竿から切り離し、徐々に温度を下げていく徐冷という冷却を経て、我々が使用するガラス器は完成する。この成形の途中で、金属型や木型に収めてきれいな形に整えることがあるが、まずは宙吹きとハサミによる成形をオレは学んでいるところである。ガラスが伸びる温度と空気の送り込み具合、そして中心を出すための回転と、成形の段階は短時間にさまざまな技術を投入せねばならないのが厄介な点だ。
もちろん冷却後の作業過程もあるし、切子と言えば完成されたガラスに模様を刻んでいった作品である。しかし、一発勝負的な作業工程にオレは魅力を感じている。宙吹きはもちろん型に吹き込んでも一回ごとにガラスの表情は異なることが魅力である。かく言うオレは技術的にとやかく言える立場ではない。
●ガレの技術
この世界に入る前に、ガレの作品がどれだけ難敵かは調べた。まず、ガレ自身は1846年に生まれ、1904年に亡くなっている。40代でなくなっているから、早世だな。父親は一介のセールスマンからガラス製造企業を興したという。そのガラス製造技術をベースにガラスアートに突き進んだという訳だ。ガレのガラス技術がすべて彼の開発したものかはわからないが、用いた技術は調べた資料だけでも20-30はありそうだ。こうした技術を得たガレの作品は1889年に万国博覧会で発表された。「あれは誰のだ」とガレの作品は注目を集め、その後1900年までの万国博覧会で出品されるごとに注目されたらしい。産業革命による機械化がハイスピードで進む中、手工芸との共存を念頭において、父親から事業を引き継いでいる。その手段として、工房による廉価な作品製造と、家具・陶器などの他分野への展開が行われたのだ。そのためガレの企業で働く従業員は最大で300名を超えていたらしい。しかし、ガレの死去から事業を引き継いだ妻もその10年後に死亡し、最終的には1931年に製造はすべて終了していたらしい。
●ガレの魅力・高島北海の影響
アールヌーボーという芸術の流れの中でガレの作品が生まれたことは間違いない。しかし、どこかしらに日本的なものを感じることかできる。それはゴッホが浮世絵のデザインを自分の作品へと単に取り入れたようなものではない。その理由をオレなりに調べた。すると、高島北海/得三という日本画家との関係が分かった。高島北海は明治17年に日本政府から派遣されて、万国森林博覧会に参加するためにイギリスへ渡り、さらにはフランス・ナンシー水利林業学校で植物地誌学を学んでいたそうだ。当初、ガレがいたナンシーの芸術家に高島が描いた日本の植物が関心を持たれたことをきっかけにガレも日本の植物に関心を持ったという。そしてガレは高島を自宅に招き、高島はガレに日本の植物事典を貸したらしい。さらに高島は持参した日本植物の種子をガレにプレゼントして、それがガレの庭を飾ったようだ。なるほどガレは日本の自然を絵から学んだだけではなく、自ら育てた植物を観察することでガラスのデザインに取り込んでいったのだな。そして高島は1888年に日本へ帰国したが、その足跡はナンシーの美術界とガレの作品にしっかりと残った。
なるほど結局はアートとなると、作り手の精神性が反映されたものとなると理解した。そうなるとガレの域に達するまで、オレの修行は果てしなく長そうだ。
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