数奇と数寄・織田有楽斎/千利休・利休七哲/織田信長・豊臣秀吉・徳川家康
●東京・有楽町
東京・有楽町、皇居・元の江戸城に隣接する地域としては、北に丸の内、大手町と続く町名である。その外側では、南は銀座、新橋へと、北には京橋、日本橋と続く商業地域でもある。
諸説はあるが、江戸時代に書かれた書物「江戸砂子」に、織田有楽斎が拝領された土地であることに、地名が由来するとされているが、真偽は定かではない。「後楽園」にはその由来となる「先憂後楽」という言葉があることに対し、「有楽」という意味自体は定義されていない。そのため有楽町は、個人的には「有楽斎」に由来するということもまんざら否定できないと思っている。しかし現在「有楽」で有名になった企業がある。それは「ブラックサンダー」というチョコレート菓子で人気がある有楽製菓があるので、こちらのほうがなじみ深い人もいると思う。
さて、この織田有楽斎という人物はどのような人物なのか。
●織田信長の弟として
名字から想像がつく通り、織田信長の一族である。それも、織田信長の13歳下の弟である。元の名前は織田長益であり、織田信長の長男・織田信忠と行動を共にして戦果を上げた。しかし、一大の転機は、もちろん本能寺の変である。信長襲撃されるとの情報が信忠の元に届くと、長益は共に二条御所に籠城する。明智の兵に囲まれると「もはやこれまで」と切腹した信忠に対し、長益は女装して難を逃れたと伝わる。世間では、信忠に切腹を勧めながら、自らは逃亡した卑怯者と伝わった。
直後、豊臣秀吉により明智光秀が成敗されると、信長の次男・信雄に仕えた。以降、豊臣と徳川の相互に与しながら数寄者・茶人として生きる決意をする。そして剃髪し、有楽斎と称するようになった。
その後の関ケ原の戦いでは、徳川側につくことになる。しかし、豊臣の淀殿は有楽斎の姪であり、その子・秀頼の二人には、徳川との和睦を勧めた。豊臣が生きる道を勧めた有楽斎であったが、結局、大坂夏の陣で豊臣は滅亡となった。豊臣徳川共存の願いもかなわず、有楽斎は以降茶の湯に専念し、有楽流の祖となる。1622年、当時としては長生となる75歳で波乱の人生を閉じた。
●茶人としての有楽
有楽斎は千利休存命時に茶の湯を学んでいる。利休七哲または七人衆の一人ではないが、利休直系の弟子であることには違いない。利休とその高弟であった古田織部がともに切腹を賜ったのに対して、政治や権力とやや離れた場所で生きた茶人である。
安土桃山時代から江戸時代の間には、茶人が所持した茶道具が名品として今に伝わるものが多い。有楽斎が所持したことで、その銘にもなった茶碗に大井戸・有楽があり、東京国立博物館に今も残っている。ミカンで富豪となった紀伊国屋文左衛門、仙波太郎左衛門、伊集院兼常、藤田傳三郎、そして松永耳庵から博物館に寄贈された高麗茶碗である。その堂々たる姿は、萩焼の坂田泥華が終生、大井戸茶碗の目標としていたもので、喜左衛門と並ぶ大井戸の双璧である。
しかし、その他の茶道具においては有楽斎所持として伝わるものはあまりない。東京・三井記念美術館に伝・織田有楽斎所持とされている井戸茶碗があるくらいである。名物にこだわらず、楽しむ・もてなす茶に徹した姿が目に浮かぶ。
●国宝・如庵
愛知県犬山市、ここに有楽斎の遺したもので現在、国宝として残るものがある。それは1618年に京都・建仁寺の塔頭・正伝院に建造されたとされる茶室「如庵」である。実は、この茶室、茶人・益田鈍翁により京都から東京へ移築され、さらに三井高棟により神奈川県に移築されていた。さらに、1972年に現地に移築されるという有楽斎同様に数奇な運命をたどっている。
この茶室の読み方は「じょあん」。そう「Joan」・「Johan」の発音である。一説によれば有楽斎のクリスチャンネームから付けられたと推察されている。
利休の草庵とも言うべき茶室とは一線を画している。客をもてなすという意図を反映して、茶室は二畳半台目というやや広めのスペースになっているという。別名「暦張りの席」と呼ばれているようである。茶席として羨望を集め、各地に写しの茶席が残っている。
織田信長の弟として生まれながらも、75歳の天寿を全うした有楽斎。数奇な運命を数寄で生き切った茶人であった。
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