新しい自分が見たいのだ・河井寛次郎/河井寛次郎記念館/チャップリン/松久宗琳
●Next One
喜劇王・チャップリン。映画の創成期において、自ら主演・監督を務めた俳優である。「モダンタイス」「独裁者」など、単に面白おかしい映画ではなく、メッセージを明確にした映画作りが素晴らしい。ある時、チャップリンは記者からのインタビューで「あなたの最高傑作を教えてください」と質問された。その回答はというと「next one」。つまり、「次回作が最高だ」との意味である。現況に満足せず、まだ何かを追求していこうとする、ファイティングポーズ。さすがにチャップリンである。
同じ言葉ではないが、「新しい自分が見たいのだ 仕事する」と記した陶芸家がいる。その名は河井寛次郎。土を練る、形作る、釉薬を塗る、焼成する・・・という同じ作業の繰り返しの中でも、新たな発見/作品を追求する意気込みであり、自分自身の発見をも求めているのである。これはチャップリンの言葉と通じるところがあるように思える。
●陶芸家・河井寛次郎
島根県安来市、遠く伯耆富士と呼ばれる大山を望むのどかな土地である。民謡、安来節のふるさとでもある。1890年、ここにある陶芸家が生まれている。河井寛次郎である。中学時代に焼物の道を志し、1910年、東京高等工業学校窯業科に入学。同校の二年下には濱田庄司がいて、以降生涯の友となった。卒業後は京都市立陶磁器試験場に技師として入所し、1920年には京都市五条坂に工房「鐘渓窯」と住居を構える。ここは現在、河井寛次郎記念館という美術館になっている。開窯した翌年には、東洋古陶磁の技法を駆使した雅やかな作品を個展で発表し、「天才現る」との評価を得た。しかし、河井の作品を「しょせん写しはほんものに勝てない」と評した人物がいる。それは後に民芸運動の中心人物となる柳宗悦である。この言葉に衝撃を受けた河井は自らの仕事に疑念を抱き、以降は写しをせず、さらに作品に銘を入れることを止めて、無銘の器を作る一陶工を志すことになる。濱田を介して柳宗悦と親交を結ぶや作風を一変させた。河井独自の造形を生み出すことになる。
以降、知人が出品した偏壺で、ミラノ・トリエンナーレ国際工芸展グランプリを受賞。河井オリジナルが世界を認めたのである。晩年は木彫作品に関心を示した。さすがに自らノミを振るう年齢ではなく、京都の仏師・松久宗琳が寛次郎の手となり作品を完成させている。1966年没、「この世は自分を見に来たところ」とも述べていた寛次郎。今、あの世でいかなるものを制作しているのであろうか?
●寛次郎の作品
河井寛次郎記念館は京都の町屋のたたずまいを残す瀟洒な建物である。道に面した壁伝いには竹の犬矢来が据えられている。木戸を開け、中に入ると中庭のある住居がある。この住居部分も寛次郎が設計し、大工に指図して制作したものであるという。ここには初期の中国陶磁の写しとして制作したものから、晩年までの寛次郎の作品まで展示している。
寛次郎らしい技法としては、打ち薬と呼ばれる赤と黒、緑の釉薬を筆で振るって模様とした作品がある。また、ロクロ挽きの完成した器体に、泥状にした陶土を盛り上げて筆塗したものがある。他の陶芸家でも使用している技法ではあるが、イッチンというスポイト状の道具で泥状にした陶土で模様を描いた作品もある。
釉薬は青い呉須釉と赤く発色する辰砂釉を使用していた。後者は焼成が安定しない薪窯での製作は難しいものであるが、きれいな発色を得ている。
陶器の形状としては、どれも寛次郎独特の形状であるが、L字形の土管をモチーフにしたものや、自動車のフロント部分をモチーフにしたものなどが作られている。
先に記したように、木彫作品では寛次郎自身はデザインに徹し、摩訶不思議な作品が数多い。
河井寛次郎記念館、つまり元の住居には中庭がある。この中には、まん丸の石が置いてある。晩年に出身地・安来の石工が寛次郎に欲しい石彫を尋ねたところ、考え抜いてまん丸な石を欲したという。一抱えあるような大きな球形の石であるが、寛次郎自らゴロゴロと庭内を移動させ、眺めて楽しんでいたと伝わっている。いろいろな複雑な形を追求した寛次郎であるが、最後に求めたのは単純な球形であった。
●「価値はどれくらい?」「本物なの?」…など気になる骨董品の査定は「こたろう」へ